日給5ドル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:26 UTC 版)
T型フォード生産の最盛期には、賃金は1日あたり6ドルとなった。また、さらに投資により、社の利益を共有する計画なども提供された。 フォードは福祉資本主義(英語版)の先駆者で、転職率が高く毎年多数の労働者を新たに雇用しなければならない状況を改善するためもあり、労働者の待遇改善に努めた。最良の労働者を雇い続けることも効率向上の手段である。 1914年、日給5ドルを提示し、従来の賃金のほぼ2倍として世界を驚かせた。オハイオ州クリーブランドの新聞は、この発表について「この不況下の暗雲を突き抜けて目をくらませるようなロケットを放った」と評した。新たな労働者を雇う必要がなくなり、デトロイトで最上の機械工が集まったため、生産性が向上し、職業訓練コストが低減した。日給5ドルを発表したのは1914年1月5日のことで、熟練労働者の最低日給を2.34ドルから5ドルに引き上げるというものだった。また資料によって詳細は異なるが、1週間の労働時間も減らした。1922年の自伝によれば、週に6日間、1日8時間で48時間と記されており、1926年には週5日間の40時間労働となっている。 デトロイトはアメリカの中でも高賃金の都市だったが、フォードの賃上げのせいで競争相手は賃上げするか熟練労働者を失うかという状況に追い込まれた。さらに給料が増えた労働者は自分達が作っている自動車を購入できるようになり、経済的にもよい波及効果をもたらした。フォードはこの方針を賃上げというよりも利益分配だと説明した。フォードに日給5ドルを進言し納得させたのは当時のデトロイト市長 Couzens とも言われている。 利益分配の対象は6カ月以上勤続した素行に問題のない労働者に限られた。深酒やギャンブルなどの癖がある者は対象外とされ、素行調査のために50人の調査者とサポートスタッフを雇った。大部分の労働者は利益分配の資格を得ることができた。 フォードが従業員の私生活にまで踏み込んだことには批判もあったため、間もなく調査の手を緩めることにした。1922年の回想録では、このことについて過去形で記し、「産業界に温情主義の入り込む余地はない。従業員の私生活をのぞき込むことに依存した福祉は時代遅れである。人は相談と助け、しばしば特別な助けを必要とするが、全ては良識に則って行われるべきである。しかし従業員の待遇改善は外部での社会事業よりも産業を強固にし組織を強化する最良の手段である。我々は原則を変更せずに支払い方法を変更した」と記している。
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