日本大学から警視庁へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/31 03:37 UTC 版)
高校卒業後の1984年春に日本大学経済学部に入学すると、同年11月の全日本新人体重別選手権大会で優勝。この頃には高木長之助監督の下、当時としては先進的なインターバルトレーニングに取り組むなどした。2年生の時に全日本学生優勝大会、全日本学生体重別選手権大会と立て続けに学生タイトルを獲得したほか、85年のフィンランド国際大会、翌86年のアメリカ国際大会でも優勝。1987年には7月の全日本体重別選手権大会決勝で年下の岡田弘隆(筑波大学)に敗れ11月の第15回世界選手権大会では代表の座を譲ったものの、全日本学生体重別選手権大会では自身2度目の優勝を果たした。翌88年3月、日本大学を卒業。 大学卒業後は警視庁に入庁。同年のソウル五輪でも代表候補とはなったものの、既に世界チャンピオンとなっていた岡田にまたも代表の座を譲る形となった。1989年の世界選手権大会に照準を絞った持田は、藤井省太コーチから「自分の柔道を見つめ直せ」とアドバイスを受け、体作りに専念。食生活の改善を目的に歯医者に通うなどした。1989年4月の講道館杯では岡田を内股で破って優勝すると、続く7月の全日本選抜体重別選手権大会でも岡田を内股の有効で破り優勝。国内主要タイトルを立て続けに制した事で78kg級の第一人者に躍進、10月の第16回世界選手権大会では終に代表の切符を手に入れた。世界選手権では準決勝戦でソ連の強豪・バシール・ワラエフを相手に有効勝ちを収めるも、決勝戦ではかつて別の大会で勝利している韓国の金炳周に判定負けを喫し銀メダルに終わった。この決勝戦について持田は、「組ませてくれない相手にイライラしているうちに判定で負けてしまった」「正しい柔道で一本を取ろうという気持ちが強すぎた」と述懐する。 世界選手権翌年の90年には強豪ひしめくフランス国際で、前年の鬱憤を晴らすかのように優勝。しかしこの頃から講道学舎の後輩である新鋭・吉田秀彦が台頭し、1991年の世界選手権代表の座を吉田に譲ると、92年4月の全日本選抜体重別選手権の決勝戦では吉田に判定で敗れてバルセロナ五輪には出場できなかった。その後は92年11月の嘉納杯で優勝や94年の全日本選抜体重別選手権大会優勝、講道館杯準優勝等の成績を残すも世界選手権・五輪の代表に選出される事はなかった。
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