日本の醤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 14:48 UTC 版)
日本では海水からとる塩水と米から酢が作られるようになっていたが、遣隋使や遣唐使によって大陸との往来が盛んになると、未醤(みしょう)、肉醤(ししひしお)、豆醤(まめひしお)などが貴族の食事に取り入れられた。 701年(大宝元年)の大宝律令に官職名として「主醤」(ひしおのつかさ)という記載が現れる。この官職は、宮中の食事を取り扱う大膳職にて醤を専門に扱う一部署であった。 903年(延喜3年)の『和名抄』(日本最古の辞書)において、醤の和名に「比之保」(ひしほ)が当てられている。 927年(延長5年)の『延喜式』には、醤一石五斗、豉(くき)一石の醸造例が記されており、これらは味噌に似た植物性調味料だったといわれている。延喜式には平安京の東市には醤の店が51軒、西市には味醤(未醤)の店が32軒あるとの記述もある。 さらに1116年(承久4年)の太政大臣藤原忠通の年賀の献立を記した『類聚雑要抄』(るいじゅうぞうようしょう)には、具体的な図による描写も現われ、そこには塩、酒、酢とともに小皿に入れられたものが『四種器』(よぐさもの)と記されている。 江戸時代の『和漢三才図会』巻一〇五造醸の部にも「醤」の記述がある。しかし、中世に調理法は大きく変わっており、近世の初めには醤油や砂糖が広まり、鰹節のだしなど調味料を段階を重ねて使う調理法が主になったため古来の醤が調味料として活用されることは少なくなっていった。
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