日本の歴史上の猶子とは? わかりやすく解説

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日本の歴史上の猶子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 06:33 UTC 版)

猶子」の記事における「日本の歴史上の猶子」の解説

日本においては平安期より貴族社会中心に行われていた。記録上に残る最も古いケース源定淳和天皇猶子になったことであると言われているが、平安時代後期までは猶子養子違いは明確ではなかったと言われている。貞観14年10月10日右大臣基経長良の子の上表文自分叔父である藤原良房(元摂政太政大臣)の猶子であったことが記されているが、良房に他に男子はなく、蔭位家産基経継がれていることから今日では養子解されている。また、具平親王の子源師房源氏の姓のまま姉婿である関白藤原頼通猶子になったが、当時の記録では「異姓養子」(『小右記』)と書かれているまた、藤原邦綱の子の清邦のように平清盛猶子になってそのまま平氏に姓を改めた例もある。 鎌倉時代には養子との区別明確化して武士僧侶の間にも広まった官位などの昇進上の便宜を図った例 足利義満猶子となった満済皇位継承の箔付けのために後小松上皇猶子となった伏見宮彦仁王後花園天皇)、そして近衛前久猶子として関白就任した豊臣秀吉などがあげられる婚姻上の便宜を図った例 藤原能信猶子として後三条天皇入内して白河天皇生んだ藤原茂子後白河法皇猶子として高倉天皇入内して安徳天皇生んだ平徳子などが有名である。 他の氏族との関係強化を狙った例 小山政光猶子となって同盟結んだ宇都宮頼綱羽柴豊臣秀吉猶子となってその後見で家督継いだ宇喜多秀家などがあげられるまた、秀吉猶子として入内した近衛前子実父近衛前久)、同じく秀吉猶子となることで将来関白の座を内定されていた皇族八条宮智仁親王などはそれぞれ婚姻上の便宜官位に関することではあるが、近衛家皇室豊臣家皇室豊臣家氏族関係の更なる強化目的も強い。 ただし、稀に不幸な結末迎えた猶子関係も存在する。年の離れた兄である忠通の猶子になりながら保元の乱でその兄と争い敗死した藤原頼長叔父源実朝猶子になりながらその叔父暗殺した公暁などである。

※この「日本の歴史上の猶子」の解説は、「猶子」の解説の一部です。
「日本の歴史上の猶子」を含む「猶子」の記事については、「猶子」の概要を参照ください。

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