日本における野外病院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 10:22 UTC 版)
蝦夷共和国では諸外国の信頼を得るため、ジュネーヴ条約の取り決めに基づく対応として野戦病院を開設した。 大日本帝国陸軍においては、1個師団に3~4個の野戦病院が付属していた。野戦病院長は通常は軍医中佐か軍医少佐があてられたが、ときには軍医大尉の場合もあり、野戦病院の限界収容人数は200名程度であった。収容部・治療部・後送部に分かれ、軍医・歯科医将校・薬剤将校・看護将校以下300名程度で編成された。陸軍看護婦や日本赤十字社の従軍看護婦は、兵站病院以上の後方医療部隊に配置されたため、師団の野戦病院での看護はすべて衛生兵が担当した。 日本陸軍の前線医療組織としては各師団の野戦病院のほか、患者療養所や衛生隊、包帯所、野戦病院からの患者後送を主任務とする患者輸送部などがあった。軍事演習時には患者療養班が設けられることもある。 しかし野戦病院は独自の移動手段や兵站組織を持たないために、患者収容のための野戦天幕や炊事設備を設置することも困難で、さらに第一線の戦闘部隊を優先したために、野戦病院のために必要な資材の運搬が後回しにされることもあった。その結果、ガダルカナル島の戦いやインパール作戦で発生したように、食事も薬も無い状況で、麻酔なしでの手術や、野外の泥の中に患者を放置するといった、悲惨な状況が戦域で展開されることもあった。 野戦病院の数は4単位師団(1個師団は4個歩兵連隊により編成されている)にあっては4個、3単位師団(1個師団に3個歩兵連隊)にあっては3個野戦病院が設置される。野戦病院の指揮命令権者は師団長であるが,師団衛生部長(軍医大佐)が専門知識を補佐する。野戦病院の定員は、病院長(軍医少佐)以下、軍医17名、薬剤官2名、歯科医将校1名、衛生部将校3名、衛生部下士官兵161名、輜重兵将校2名、輜重兵下士官兵116名、経理部下士官兵、乗馬・駄馬76頭より編成される。各病院の半数は第一線で病院を開設し、初期治療を行い、半数は後方の半永久的な病院(兵站病院や陸軍病院など)において後送された患者の治療を継続する。各野戦病院は指定された歩兵聨隊と行動をともにする。 日本では陸上自衛隊衛生科部隊のほか、大都市の消防本部も救護所となる特殊救急車を配備している。また、災害現場で活動する医療チーム(DMAT)の配備も始まっている。 陸上自衛隊の師団野戦病院は、外科・歯科口腔外科・精神科の三科から編成されており、近代的な野外手術システムを有している。 在日米軍は、キャンプ・ドレイク(朝霞基地)、ジョンソン基地(入間基地)などでアメリカ陸軍が野戦病院を運営していた。1968年、ジョンソン基地の野戦病院を王子キャンプに移転させようとしたところ、地域住民やベトナム反戦運動を意識した学生らによる抗議活動に直面した。結局、王子キャンプの病院は「野戦病院」の名を冠しない病院として発足したが、翌年には撤退した。
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