日本における解剖の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:35 UTC 版)
日本の歴史において最初の人体解剖は『日本書紀』第十四巻にある、雄略天皇の命によって行われた稚足姫皇女の解剖とされる。ただしこれは一種の法医解剖であり、系統的な解剖ではなかった。その後、701年に成立した大宝律令では解剖の禁止が明文化されたと言われているが、原文は残存していないため詳細は不明である。 その後の日本史において、解剖が行われたのは江戸時代になってからのことである。京都の医学者山脇東洋は、人体の解剖が医学にとって不可欠であると考え、師の後藤艮山に相談した。後藤はこの時「腑分は官の制するところにて(解剖は幕府が決めること)」という回答を行ったが、幕府が明示的に解剖を禁止した法令は確認されていない。ともかく山脇は当局の許可を得、宝暦4年(1754年)閏2月7日に京都の刑場で刑死者の解剖を行った。山脇はこの成果をまとめ、『蔵志』として出版した。これに対して佐野安貞・吉益東洞・田中愿仲・福岡貞亮といった医者たちは、「腑分無用論」を唱えて山脇を批判したが、幕府関係者からの批判はなかった。 その後、明和4、5年(1767年、1768年)には東洋の子の玄侃が、7年(1770年)に荻野元凱、河田信任などが、刑屍を解剖した。明和8年(1771年)3月4日前野良沢、杉田玄白などが小塚原で解剖を行なった。前野らはこれを機に西洋医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめることとなり、『解体新書』の完成につながったことは『蘭学事始』などに詳しい。寛政5年(1793年)に晁俊章が、8年(1796年)に柚木太淳が、10年(1798年)施薬院三雲が、刑屍の解剖を行なって記録を残した。呉秀三によれば、山脇東洋の宝暦4年(1754年)の解剖から、田代万貞、半井仲庵などが文久元年(1861年)福井で行なった解剖まで、記録に残された解剖は34例であったという。 解剖が系統的に行なわれる様になったのは明治3年(1870年)以後である。長谷川泰、石黒忠悳らは大学東校から解剖のことを弁官に申請し、裁可を得た。すなわち同年10月20日付の申請に対して即日、「可為伺之通事」という裁可があった。同月27日に清三郎の死体が第一号として解剖され、12月までに52体集まった。その中には雲井龍雄の死体もあった。また、明治2年(1869年)に田口和美により井上美幾女の死体が解剖された事があり、その墓は東京白山の念速寺にある。
※この「日本における解剖の歴史」の解説は、「解剖学」の解説の一部です。
「日本における解剖の歴史」を含む「解剖学」の記事については、「解剖学」の概要を参照ください。
- 日本における解剖の歴史のページへのリンク