日本における移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 03:50 UTC 版)
「日系人」も参照 7~8世紀、倭国/日本国は蝦夷支配と開拓を目的に陸奥国・出羽国、越国に強制的な移民政策を行った。 柵戸の最初の事例は7世紀、大化3年(647年)の越国・渟足柵への送り込みで、翌大化4年(648年)には信濃国・越国から同じく越国・磐舟柵への柵戸の送り込み を城柵支配を目的に行われている。8世紀には陸奥・出羽の支配拡大のために、主に東国の住民を対象に大規模な柵戸を行った。当初は公民を対象に柵戸を行っていたが、移住先の環境の厳しさが認知されるにつれ柵戸は忌避されるようになり、後には犯罪者、浮浪人、乞食などを強制的に移住させるようになった。 また、これと正反対に、征服した東北の蝦夷を西日本各地に強制移住した。これを俘囚と言う。俘囚はしばしば反乱を起こし、手をやいた朝廷は897年全ての俘囚を現住地の東北へ戻すことを決定した。 また九州では8世紀初頭、薩摩国・大隅国成立時にも隼人の公民化を目的に柵戸が行われた。鹿児島県には当時の柵戸に由来する地名が現存しているとされる。 また遣唐使の阿倍仲麻呂のように求められて留まり、唐で高官に出世した者もいた。労働力としての人の移動は、室町時代には既に存在していた。御朱印状による御朱印船貿易で、アユタヤ日本人町のような大規模な街を造る者たちもいた。 江戸時代に入り、鎖国政策が採られて以降、江戸幕府は幕末まで移民を海外に送り込むことは無かった。
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