旅宿としてとは? わかりやすく解説

旅宿として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 01:55 UTC 版)

長崎屋源右衛門」の記事における「旅宿として」の解説

この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた。カピタンは館医や通詞などと共にこの商家滞在し多く人々が彼らとの面会求めて来訪した。この商家は「江戸出島」と呼ばれ鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場1つとなっていた。身分町人であるため江戸の町奉行支配受けたが、長崎会所からの役料支給されており、長崎奉行監督下にもあった。 カピタン一行滞在中にこの商家訪れた人物には、平賀源内前野良沢杉田玄白中川淳庵最上徳内高橋景保などがいる。学者文化人知識交流求めて訪れるだけにとどまらず多く庶民野次馬となってオランダ人一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている(#外部リンク参照のこと)。 幕府滞在中のオランダ商館員たちに対し外部人間との面会原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢訪問客と会うことができた。商館員たちはあまりの来訪者多さ悩まされもしたが、行動大きく制限されていた彼らにとって、この商家外部人間接触できる貴重な場の1つであった商館一員としてこの商家滞在し積極的に日本知識吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペルカール・ツンベルクフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる。 カピタン江戸参府は年1回行われるのが通例であったが、寛政2年1790年以降4-5年1回となり、参府の無い年にはカピタン代わりに通詞出府した。この商家カピタン参府通詞出府の際の定宿として使われていたが、それ以外には全く宿泊客受け入れていなかった。 旅宿として使われ建物には、一部西洋風内装、調度品が採り入れられていた。1946年昭和21年)に運輸省発行した日本ホテル略史』は、この商家についての記述から始まっている。

※この「旅宿として」の解説は、「長崎屋源右衛門」の解説の一部です。
「旅宿として」を含む「長崎屋源右衛門」の記事については、「長崎屋源右衛門」の概要を参照ください。

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