新発見の史料に見る勝蔵
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2013年(平成25年)には山梨県立博物館における企画展『黒駒勝蔵対清水次郎長-時代を動かしたアウトローたち-』展に際した調査活動により、勝蔵に関する新出史料が見出された。 これは八代郡夏目原村(笛吹市御坂町夏目原)の河野家に伝来した「河野家資料」の一部である二通の文書「無宿勝蔵・綱五郎動静ニ付書置」(便宜的に二点の文書を「A」、「B」と呼称される)。年記・署名はないものの、河野家当主によって作成された文書であると考えられている。内容は二通とも同様で、勝蔵とその子分の綱五郎が、勝蔵と同盟を結ぶ駿河の宮島年蔵(重太郎)の元に潜伏していることを伝えている。二通とも料紙の寸法が小さく粗悪な紙を用いており、これは秘密事項を記す目的であったためであると考えられている。 二通の文書によれば勝蔵・綱五郎は年不詳8月頃に宮島のもとを訪れ、綱五郎の縁者である上黒駒村の友吉も同行していたという。 二通の文書はほぼ同様の内容を記しているが、Aは詳しく事情を記しており、末尾には友吉の女房が語ったものであることが記されている。このためAの文書は特定の人物に宛てられたものではなく、備忘録としての書式であると考えられている。一方、Bの内容は潜伏先の情報提供者のみを記した簡易的なものであることが指摘される。 また、二通の文書には、「上黒駒村新宿 又次郎」の名が記されている。「又次郎」は、元治元年(1864年)に勝蔵が甲府城奪取を計画していたとする噂があったことを記した『官武通紀』に上黒駒村百姓として名が見られる人物で、勝蔵の協力者であったと考えられている。こうした事実から、髙橋修は黒駒勝蔵が各地に出没して清水次郎長と抗争を繰り広げ、明治維新期には浪士達と関係を深め赤報隊に身を投じることが出来た背景には、「又次郎」に代表される村落において支援者が数多くいたことを指摘している。 加えて、『黒駒勝蔵対清水次郎長』展に際した調査においては、同じ「河野家資料」から、勝蔵と敵対した国分村の国分三蔵に関する新出史料も発見されている。従来、国分三蔵は元治元年に勝蔵の襲撃を受けて以来消息不明とされていたが、「河野家資料」によれば三蔵は慶応3年(1867年)段階で石和代官領の一之宮村と田安家の中尾村との間に発生した紛争において仲裁を務めている。一之宮村は同じ石和代官領であった夏目原村に居住し郡中総代を務めていた河野家当主が側に仲裁を依頼していたのに対し、中尾村は田安家の目明し的存在であった三蔵に仲裁を依頼して、事態の解決を図っていた。このため、河野家当主と三蔵は対立関係にあった。なお、この紛争の結末は史料的制約から不明とされる。 黒駒勝蔵と国分三蔵は文久元年頃から激しく抗争を繰り広げているが、勝蔵・三蔵に関する新出史料の発見から、村落間の紛争において三蔵と河野家当主は敵対関係にあり勝蔵と交流関係を深め、このように博徒間の抗争は在地社会における村落間の紛争と連動していて展開されていたことが指摘される。
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