新民党の「40代旗手論」
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「韓国における政党史」の記事における「新民党の「40代旗手論」」の解説
1969年、当時の第三共和国憲法で「大統領は一回に限って再任することができる」と規定されていた3選禁止条項を、与党共和党が「大統領の継続任期は3期に限る」と3選ができるように半ば強引に改正(3選改憲)したことで、朴正熙の3選への道が開かれた。 3選改憲が行われた同じ年の6月、新民党の総裁で次期大統領候補として有力視されていた兪鎮午が急病に倒れ、新民党は候補者不在の状態となった。その最中の11月、當時院内総務であった若手議員の金泳三(当時43歳)が「40代旗手論」を唱えて、大統領候補に名乗りを上げた。 これに呼応する形で、金大中(当時44歳)と政治浄化法による政治活動規制から解除されたばかりの李哲承(當時47歳)も大統領候補指名選挙への出馬を宣言した。党内の年功序列を無視する形での指名選挙への出馬は、柳珍山を初めとする長老達の反発を受けたが、長老支配の野党に対する反発と「40代旗手」が主導する野党に期待する世論の支持を受けた。 こうして、新民党の候補者指名選挙は金泳三と金大中、李哲承の「40代旗手」で争われることが決定し、当初候補指名選挙に意欲を示していた柳珍山は党総裁に回ることを余儀なくされた。1970年9月に開かれた党大会で候補者指名選挙が行われ、金泳三が金大中を抜いて第一位となった。しかし過半数には達しなかったため、決選投票が行われ、金大中が李哲承の支持を得て僅差で金泳三に勝利し、新民党の次期大統領候補に選出された。當時、金大中は党内非主流派である新派系に属し、党内での基盤は弱かったが、金泳三の出馬で主流派(珍山派)が分裂したことと非主流派の支持を一身に集めたことで勝利することが出来た。以後、金泳三と金大中は、保守野党勢力における領袖として対立しつつも民主化闘争では協力し合い、自らの政治力を強めていった。 1971年の大統領選挙は事実上、共和党の朴正熙候補と新民党の金大中による一騎討ちとなった。朴正熙は与党共和党の膨大な党組織と行政組織が一体となった選挙戦を展開し、金大中を押さえて当選を果たしたが、朴候補は出身者地域である慶尚道地域で金候補も出身者地域である全羅道地域で、それぞれ60〜70%以上の得票を得ており、韓国政治を左右することになる地域対立が際だつ選挙結果となった。 大統領選挙翌月の5月に行われた総選挙で、新民党は珍山波動で党内が混乱状態になっていたにもかかわらず、憲法改正阻止線(三分の一)を大きく上回って躍進した。この結果、政府と与党共和党は再度の憲法改正が不可能になった。
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