新民党の「40代旗手論」とは? わかりやすく解説

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新民党の「40代旗手論」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 13:46 UTC 版)

韓国における政党史」の記事における「新民党の「40代旗手論」」の解説

1969年当時第三共和国憲法で「大統領一回限って再任することができる」と規定されていた3選禁止条項を、与党共和党が「大統領継続任期3期に限る」と3選ができるように半ば強引に改正3選改憲)したことで、朴正熙の3選への道が開かれた3選改憲が行われた同じ年の6月新民党総裁次期大統領候補として有力視されていた兪鎮午急病倒れ新民党候補者不在の状態となった。その最中11月當時院内総務であった若手議員金泳三当時43歳)が「40代旗手論」を唱えて大統領候補名乗りを上げた。 これに呼応する形で、金大中当時44歳)と政治浄化法による政治活動規制から解除されたばかり李哲承當時47歳)も大統領候補指名選挙への出馬宣言した党内年功序列無視する形での指名選挙への出馬は、柳珍山初めとする長老達の反発受けたが、長老支配野党対す反発と「40代旗手」が主導する野党期待する世論支持受けた。 こうして、新民党候補者指名選挙金泳三と金大中李哲承の「40代旗手」で争われることが決定し当初候補指名選挙意欲示していた柳珍山は党総裁に回ることを余儀なくされた。1970年9月開かれた党大会で候補者指名選挙が行われ、金泳三金大中抜いて第一位となった。しかし過半数には達しなかったため、決選投票が行われ、金大中李哲承支持得て僅差金泳三勝利し新民党次期大統領候補選出された。當時金大中党内非主流派である新派系に属し党内での基盤弱かったが、金泳三出馬主流派(珍山派)が分裂したことと非主流派の支持一身集めたことで勝利することが出来た以後金泳三と金大中は、保守野党勢力における領袖として対立しつつも民主化闘争では協力し合い、自らの政治力強めていった。 1971年大統領選挙事実上共和党朴正熙候補新民党金大中による一騎討ちとなった朴正熙与党共和党膨大な党組織行政組織が一体となった選挙戦展開し金大中押さえて当選果たしたが、候補出身者地域である慶尚道地域で金候補出身者地域である全羅道地域で、それぞれ6070%以上の得票得ており、韓国政治左右することになる地域対立際だつ選挙結果となった大統領選挙翌月5月行われた総選挙で、新民党珍山波動党内混乱状態になっていたにもかかわらず憲法改正阻止線三分の一)を大きく上回って躍進した。この結果政府与党共和党再度憲法改正不可能になった。

※この「新民党の「40代旗手論」」の解説は、「韓国における政党史」の解説の一部です。
「新民党の「40代旗手論」」を含む「韓国における政党史」の記事については、「韓国における政党史」の概要を参照ください。

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