新民法典の制定
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1893年(明治26年)3月、伊藤博文が西園寺・箕作・穂積陳重・梅・富井らに旧民法修正の方針を諮問、陳重は民法の根本的改修、パンデクテン方式の採用、分担起草、委員会への実業家の採用などを答申。勅令第11号により『法典調査会規則』が成立、陳重、富井、梅の三名が起草委員に就任。4月、伊藤が法典調査会総裁、西園寺が副総裁となり、主査委員と査定委員を任命。 1894年(明治27年)3月、機構を簡素化して委員を減少、当初書記の松波仁一郎・仁保亀松・仁井田益太郎が起草委員補助に就任。4月、陳重の提案に基づく『法典調査規定』『法典調査ノ方針』が成立、5月から会議を開催。
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