新宮高校野球部監督時代とは? わかりやすく解説

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新宮高校野球部監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 05:39 UTC 版)

古角俊郎」の記事における「新宮高校野球部監督時代」の解説

1948年6月新宮高校体育教師が古角と旧知間柄で、また時の校長が古角が1年だけ在籍した新宮中時代恩師であったことから、この体育教師から野球部指導依頼される。古角が育った新宮東牟婁地域は、古くから野球よりサッカー盛んな土地柄であった。そこで家業旅館経営傍ら無料コーチ引き受ける(実質的な監督)。コーチ就任後、最初グラウンド作り取り組んだ母校明治大学から、当時選だった牧野茂招いて指導依頼したこともある。 3年目となる1950年全国高等学校野球選手権紀和大会1年生投手森本達幸擁する奈良県立郡山高校を9回逆転サヨナラ破り、初の全国高等学校野球選手権出場決める。だがこの時は初戦敗退であった1951年春に第23回選抜高等学校野球大会にも初出場果たした。この時、同時に出場果たした東京代表の明治大学付属明治高等学校が、その当時阪神甲子園球場近傍に在った甲陽学院グラウンド練習中、明治高校監督だった島岡吉郎請われて古角が他校指導者であるにも関わらず明治ナインノック行ったエピソード残っている。なお、大会初戦敗退であった1952年3年生になった森本達幸郡山高校破り2度目選手権大会出場果たし大会勝利を上げている。 1953年前岡勤也入学2年目となる1954年は初の春夏連続出場を果たす。春は初戦敗退、夏は2回戦から出場し準決勝まで勝ち上がるが、中京商業に敗退した。前岡が3年生となる1955年は、選手権には出場果たし坂崎一彦擁する浪華商業破り畑隆幸小倉破り2勝したが、前年続き中京商業に敗退した国体には前年続いて2年連続出場した。 古角は家業専念するため、この1955年限り監督退任した指導期間は8年であった甲子園での戦績は春2回(2敗)、夏4回(5勝4敗)、合計で6回出場し、5勝6敗。 古角の野球対す信条は「日本一タマ拾いになれ」であった。古角が海草中学転校して最初1ヶ月間、ボールが豊富でなかった(30 - 40個)事情もあり、練習滞らせないため必死になって球拾い励んだ結果、「一番下手が『上手くなった、やったらやれる』と自信になり、自身野球人生土台培った」という体験から信条とした。新宮高校監督就任してからも、選手に対して口にしていたという。

※この「新宮高校野球部監督時代」の解説は、「古角俊郎」の解説の一部です。
「新宮高校野球部監督時代」を含む「古角俊郎」の記事については、「古角俊郎」の概要を参照ください。

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