斎藤守弘
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斎藤 守弘(さいとう もりひろ、1932年7月7日 - 2017年4月14日)は、日本の科学評論家、SF作家、超古代文明研究家。
1960年代、自分では前衛科学評論家を名乗った。日本考古学会会員、日本天文学会会員。超歴史学研究会理事。
経歴
東京府北豊島郡三河島町(現・東京都荒川区)出身[1]。父は九州帝国大学(現・九州大学)農学部助手、母方の一族は三河島の大地主[1]。第一峡田小学校(現・荒川区立峡田小学校)5年生の時、福島県伊達郡梁川町(現・伊達市)に疎開[1]。中学校1年生の時に敗戦を迎えて東京に戻り、東京都立上野中学校(現・東京都立上野高等学校)に入る[1]。当時、アメリカへの復讐として原子破壊機の発明を誓い、物理学の本を読みあさっていた[1]。のち、東京教育大学で素粒子論を専攻。卒業後、会社役員を経験した。
日本空飛ぶ円盤研究会の例会で星新一を始めとする日本SF界草創期の立役者たちと知り合い、斎藤も『宇宙塵』誌に第一期会員として参加する。
1963年3月5日、東京都新宿区の料理店にて斎藤は石川喬司・小松左京・川村哲郎・斎藤伯好・半村良・福島正実・星新一・森優・光瀬龍・矢野徹と共に日本SF作家クラブを結成した(だが現在はメンバーではないので、いずれかの時期に脱退したと思われる[2])。
豊富な科学知識を武器に1960年代から1970年代にかけ、科学解説者としてテレビやラジオにレギュラー出演し活躍した。
1967年の筒井康隆の短篇小説「ベトナム観光公社」にサイトラ・モリチャロスキイ+(プラス)の名前で登場している。筒井も、自作の漫画の中に科学解説者として斎藤が登場させたこともあった(『筒井康隆全漫画』奇想天外文庫、1976年)。1970年の手塚治虫の短篇漫画「ドオベルマン」には実名で登場している。
『SFマガジン』1968年2月号の座談会「新春SF放談会 SF人がこう評価する」で斎藤は、「最近のSFには発見性がない」と発言して物議をかもした。
1970年代にはジュニア向けのオカルト系、超科学系の書籍を多数発表したが、明らかに捏造である記事を検証もしないまま書いており、オカルト・ブームに大きな影響を与えた。1980年代には学研の『ムー』誌に何度か登場している。超古代史に傾倒し、超古代文明の存在などを信奉、超歴史学研究会理事を勤めていた。
著書
- 『バンビブック18 空飛ぶ円盤なんでも号』(高梨純一, 荒井欣一, 小隅黎, 星新一たちとの共著、朝日新聞社) 1958
- 『サイエンス・ノンフィクション』(早川書房) 1964
- 『ふしぎだがほんとうだ』(少年画報社) 1965 - 上掲『サイエンス・ノンフィクション』を児童向けに改稿したもの
- 『世界の奇談』(大陸書房) 1968
- 『神秘の世界』(大陸書房) 1969
- 『ミステリの科学』(大陸書房) 1970
- 『世界ふしぎ少年ふしぎ少女』(朝日ソノラマ) 1970
- 『奇現象の科学』(大陸書房) 1971
- 『四次元の科学』(大陸書房) 1972
- 『失われた科学』(大陸書房) 1972
- 『日本列島の前衛科学』(大陸書房) 1972
- 『一億総天才論』(日新報道) 1972
- 『宇宙の使者』(大陸書房) 1973
- 『宇宙の前衛科学』(大陸書房) 1973
- 『四次元の人間学』(大陸書房) 1974
- 『失われた世界の謎』(大陸書房) 1974
- 『恐怖! 幽霊スリラー』(学習研究社、ユアコースシリーズ) 1974
- 『超科学ミステリー』(学習研究社、ジュニアチャンピオンコース) 1974、のち復刊ドットコムより再刊 2017
- 『ショック! 写真構成 人体の怪奇大百科』(学習研究社、ユアコースシリーズ) 1974
- 『絶望の惑星』(大陸書房) 1975
- 『奇跡の発明』(大陸書房) 1975
- 『未来の宇宙工学』(大陸書房) 1975
- 『惑星動物の謎』(大陸書房) 1975
- 『SF入門 なぞの四次元』(学習研究社、ユアコースシリーズ) 1975
- 『地球のミステリー』(大陸書房) 1976
- 『神々の発見 - 超歴史学ノート』(講談社) 1997
構成
- 『怪奇大魔法:魔法の科学』(小学館) 1975
翻訳
- 『しかもそれは起った』(フランク・エドワーズ、早川書房) 1963
脚注
関連項目
外部リンク
斉藤守弘
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斉藤 守弘あるいは齋藤 守弘(さいとう もりひろ、1928年〈昭和3年3月〉 - 2002年〈平成14年〉5月13日)は、茨城県岩間町出身の日本の武道家(合気道家)である。守弘は合気道「開祖」(創始者)・植芝盛平による命名。本名は斉藤森造。
合気道(合気会)9段、合気会師範、茨城道場道場長。1946年(昭和21年)から盛平に入門し以来23年間仕え、盛平没後は合氣神社を守り続けた。
略歴
盛平から直々の稽古を23年も受けることのできた唯一の人物(他の高弟の中でも同じぐらい稽古を受けた人物は存在しない)。盛平から武器稽古を受けることのできた数少ない弟子の一人であり、また東京の合気会本部道場での剣・杖の教授を許された唯一の師範でもあった。また合気会名義で発行される段位免状とは別に、武器技に関する独自の免状を発行することも黙認されていた。後に盛平の武器技を整理分類し、誰でも段階を追って学べるように、7の素振り、31の杖、13の杖、20の素振り、合わせ、組太刀・組杖等を考案。ちなみに組太刀等の型そのものは盛平が生存していたときから既に存在していた。
盛平亡き後は茨城道場の道場長として「開祖直伝」の技を教授した。後に、斉藤の教授する合気道の型は、岩間スタイルと呼ばれるようになる。
イタリアで講習会を行った際に、立ち技だけで400を超える技が出てきたという。このことは合気ニュースの取材等でもよく強調していた。合気道の技は無限に存在するということの証明であるといえる。茨城道場では多くの外国人を道場に住み込みの内弟子として受け入れていたため、日本国内よりも国外での知名度、普及率が高い。
他の合気道の会派が多数の本を出版しているのに対し、斉藤の著書はそれほど多くは無い。(港リサーチ社、合気ニュースから出版されている技術書など。武術雑誌にも取材を受けている)。
1960年代から1970年代にかけての演武では、他の合気道師範同様自由技や多人数掛け(体術と武器とりが混合している場合も)を行っていた。しかし、1980年代になってからは「体の変更」「諸手取り呼吸法」といった基本動作の解説をしてから体術の様々な基本技・応用技を紹介をする、また剣や杖の合わせや武器技と体術との関連性を説明をしてから組太刀・組杖・剣対杖の実演を行うといった、いわゆる講習会形式の演武が多くなっていった。これには、戦後の合気道が同じ武道でありながら師範によってまったく異なった形式で伝わり、盛平直伝の「基本」が消えつつあった(武器技が消滅する、もしくは他武道の武器技を学ぶようになっていったことなど)ために、その警鐘のためであったと考えられる。
また、斉藤の演武では、指一本で弟子を投げる、もしくは触れずに相手を転がすといったものは見当たらない。あくまでも、初心者の段階でも学ぶような基本の技で相手を投げる・もしくは制する演武を行った。
関連項目
関連書籍・DVDなど
- 武産合気道 1-5巻(合気ニュース)
- 合気剣 特別講座 (合気ニュース)
- 合気杖 特別講座 (合気ニュース)
- 柳川 昌弘が読み解く武道家のこたえ BABジャパン出版社
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