文献と時代背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:28 UTC 版)
「オエンガス1世 (ピクト王)」の記事における「文献と時代背景」の解説
この時代のピクト人の文献は極めて少なく、720年代前半の王名表や、当時ケンリグモナズと呼ばれていたセント・アンドルーズ創建に関するいくつかの文献しかない。その中でも最も信頼できるのは、いわゆるアイルランド年代記(英語版)の中の『アルスター年代記(英語版)』やタイガーネック年代記(英語版)である。これらの文献には、アイオナ島の修道院に残されていた史料の内容も含まれている。またカンブリア年代記などのウェールズの文献にも、しばしばオエンガス1世やピクト人が登場する。ノーサンブリアの文献にはさらに頻繁に言及がみられ、ベーダの著作の続きとして書かれた年代記や、ダラムのシメオン(英語版)によるものとされる『イングランド諸王史』などは最重要の文献とみなされている。 8世紀前半、ブリテン島北部には大きく4つの政治勢力が割拠しており、ピクト人はその一つであった。彼らの領域すなわちピクトランドはフォース川の北側に位置し、オークニー諸島やシェトランド諸島、西方諸島も支配下に置いていた。ヴァイキング時代(英語版)以前のピクトランドにおける最大勢力はフォルトリウ(英語版)王国であった。7世紀後半からこの地方の王がピクト王位を占めたことから、「ピクト王」(ラテン語: rex Pictorum)と「フォルトリウ王」(ラテン語: rex Fortrenn)が同義に扱われることもある。この王国の中では、バーグヘッド(英語版)やインヴァネス郊外のクレイグ・ファトリグが重要な地であったことが知られている。ピクトランドにおける司教座はローズマーキー(英語版)のみであった。 ハンバー川でピクトランドと向かい合い、その南に勢力を広げていたのがノーサンブリア王国である。ノーサンブリアはかつてブリテン島で覇権を握り、この時期にも強大な勢力を保っていた。しかし729年にオスリック(英語版)王が死去して長きにわたって続いた王朝が断絶すると、複数の一族が王位をめぐって争い内乱に陥った。またさらに南方ではマーシア王国が台頭しノーサンブリアに立ちはだかった。ピクトランドでオエンガス1世が君臨した時期の大部分において、ノーサンブリアは有能なエズバート王が支配していた。 ピクトランドの南西にはゲール人のダルリアダ王国があった。ここでは北部アーガイル(英語版)のケネル・ローン家(英語版)と、キンタイアのケネル・ガブラーン家(英語版)が王位を争っていた。723年、シェルバハ・マック・フェルハイル(英語版)王が退位して息子のドゥンガル・マック・シュルバグ(英語版)にケネル・ローン家の家長とダルリアダ王位を譲ったが、726年にケネル・ガブラーン家のエオハズ・マック・エダハダ(英語版)がドゥンガルを王位から追い落とした。731年にドゥンガルがターバート(英語版)を焼いており、少なくともこの時期まではドゥンガルとエオハズの抗争が続いていた。 第4の勢力はブリトン人のアルト・カルト王国で、これはストラスクライド王国(英語版)の前身である。アルト・カルト王国に関する記録は乏しい。722年からチュエズブル(英語版)王がダンバートンの岩を拠点として統治を行っており、彼が752年に死去すると息子のドゥムナグゥアル3世(英語版)が跡を継いだ。
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