文献としての『中庸』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:07 UTC 版)
現在「四書」の一つとして広く知られている『中庸』は、もともと『礼記』中の一篇、すなわち礼記中庸篇として伝えられてきたものである。司馬遷の『史記』では、中庸は子思の作であるとされており、これが通説となっている。しかし、戦国時代の無名の儒家の著作であるという説や、『大学』同様『子思子』の一篇だったのではないかという説もあり、成立及び作者は諸説が存在している。古くから有名な作品として人々に読まれてきた。初めて『中庸』を重視したのは南朝宋の戴顒(378年 - 441年、戴逵の子)であるとされている。彼が『礼記中庸伝』を書いた。宋代になると、有名な学者、政治家などが次々と『中庸』の注釈を著した。司馬光・范祖禹・蘇軾・程顥など、著名な人びとの専著は十指にのぼる。この中で、もっとも知られているのは朱子の『中庸章句』である。朱子学において『大学』が四書の入門であるのに対し、『中庸』は四書の中で最後に読むべきものとされた。
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