政府の対応に対する批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:55 UTC 版)
「1970年のボーラ・サイクロン」の記事における「政府の対応に対する批判」の解説
我々は大きな陸軍を保有するが、死者を埋葬する仕事はイギリス海兵隊に委ねられている。 シェイク・ムジブル・ラフマン 東パキスタンの政治指導者たちは、惨事に対する中央政府の初期対応について非常に批判的だった。東パキスタンの政治指導者11人はサイクロン襲来から10日後に声明を発表し、政府の対応を「全体的な怠慢、肥厚した無関心、完全な無関心」であるとして糾弾した。彼はまた大統領が報道内容を矮小化していると批判した。11月19日にはダッカで政府の対応の遅さに抗議する学生によりデモが開かれ、11月24日にはマウラナ・アブドゥル・ハミド・ハーン・バシャニが抗議集会に5万人を集めて大統領の無為無策を責め辞任を要求した。大統領の政敵もまた不手際を批判し一部は辞任を要求した。 パキスタンの赤新月社はイギリス赤十字社から寄付された救命ボート20隻を赤新月社が獲得したことに因んで生じた論争の後、政府とは独立に行動するようになった。 ある害虫駆除業者は、既に国内に存在する農薬散布用の飛行機2機を用いて被災地に物資輸送を行おうとしたが、許可を得るまで二日間待たされた。パキスタン政府が救援活動に投入したヘリコプターは僅か1機に過ぎなかった。後日ヤヒヤー・ハーンは西パキスタンのヘリコプターには物資輸送能力が無いため投入する意味は無いと述べた。 1971年1月早々、「パキスタン・オブザーバー」紙の記者は最も被害が激しかった地域で一週間を過ごし、救援組織から送られたテントが生存者を収容する用途には全く使われておらず、新しい住宅を建設するための補助金が不十分であると述べた。パキスタン・オブザーバー紙の第一面は連日「救援に向けた協調無し」と言った見出しを掲載する一方で「救援活動は順調に進展中」との政府声明を掲載した。1月は東パキスタンが年間で最も寒い時期に当るが、「イッテファク日報」紙の編集者が主催する国民救援・復興委員会は、何千人もの被災者が「露天の下で過ごしている」と述べた。あるスポークスマンはサイクロンで家を失った住民は再建のため250ルピー (55米ドル(1971年当時、2007年換算で279米ドル))までの資金を受け取っているとしたが、物資が払底しているため生存者は「現金をそのまま齧る」羽目になるのではないかと恐れた。
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