播磨但馬平定とは? わかりやすく解説

播磨・但馬平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)

豊臣秀吉」の記事における「播磨・但馬平定」の解説

詳細は「中国攻め」を参照 天正5年1577年10月23日信長西国の雄毛利輝元毛利氏影響下にある山陽道山陰道である中国路方面攻略を命ぜられ、秀吉播磨国出陣した播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護赤松氏配下勢力であった赤松則房別所長治小寺政職らを従える11月中に播磨平定できると報告して信長より、その働き賞賛される朱印状送られた。 秀吉は更に播磨国から但馬国攻め入った。岩洲城を攻略し太田垣輝延の篭もる竹田城降参させた。以前から交流のあった小寺孝高黒田孝高)より姫路城譲り受けて、ここを播磨においての中国攻め拠点とする。播磨において一部勢力秀吉に従わなかったが上月城の戦い第一次)でこれを滅ぼした天正7年1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前美作大名宇喜多直家服属させ、毛利氏との争い有利にすすめるものの、摂津国荒木村重反旗を翻した有岡城の戦い)ことにより、秀吉中国経略一時中断余儀なくされるこの頃信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子迎えることを許される天正8年1580年)には織田家反旗を翻した播磨三木城主・別所長治への攻撃大詰め迎える。途上において竹中重治古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した三木合戦)。 同年播磨から再び北上して但馬侵攻し、かつての守護山名氏勢力従える最後まで抵抗していた山名祐豊嫡男山名氏政落城前に羽柴家帰参)が篭もる有子山城攻め落とし但馬国織田氏勢力圏とした。自らは播磨経営専念するために弟である羽柴秀長有子山城主として置き、但馬国統治任せた山名氏政を自らの勢力取り込むことにより但馬の国人の反乱起きず羽柴秀長による但馬経営円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。

※この「播磨・但馬平定」の解説は、「豊臣秀吉」の解説の一部です。
「播磨・但馬平定」を含む「豊臣秀吉」の記事については、「豊臣秀吉」の概要を参照ください。

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