批評と懸念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:18 UTC 版)
マインドフルネスは大流行し、世俗的な目標達成のツールともみなされている。お手軽な「マック・マインドフルネス」と揶揄されることもある。 世俗的なマインドフルネスは、仏教的マインドフルネスにあった真理との関係を切り離し、恣意的な非常に小さな枠、ドゥルーズの言う「コントロール社会」の枠に合わせて調整されており、近年のアメリカでは軍事訓練で使われるようにもなっている。こうした都合よく切り詰められたマインドフルネスの「去勢」がもたらす問題を指摘する声もある。 現代的なマインドフルネスは、正見を含む八正道とは切り離され、「ありのままの注意」という特別な注意のスキル、またはそれを向上させる訓練メソッドとして実践されており、仏教のアプローチとは異なる。仏教サイドから次のような意見・懸念も寄せられている。曹洞宗国際センター所長の藤田一照は、現代的なマインドフルネスのように、仏教において根本的誤解(無明)であるとされる「自分というものがここにいて、それと分離した形でいろいろなものや人が自分の周りに存在している」という分離・分断のヴィジョンに基づいてマインドフルネスを行うと、そのヴィジョンが強化され、「呼吸に対する気づき」と共に「呼吸に対してマインドフルであろうと努力してるわたしという意識」も強化される、つまり注意の対象である客体と主体が同じく強化されるため、「わたし」が呼吸に対してマインドフルであろうと努力すればするほど、対象である呼吸との断絶は深まり、力づくのマインドフルネスにならざるを得ない、と意見している。仏教的に言えば、マインドフルネスは「ただのマインドフルネス」ではなく、正見に相応した正念、正しいマインドフルネスでなければならず、「わたし」にとってのメリット、測定可能な効果を求めてマインドフルネスを行うことは、仏陀のアプローチとは正反対とも言え、苦しみの原因である「わたしという意識」が強化され、解決とは程遠いという。精神科医の北西憲二も、マインドフルネスと無我は深く関係していると指摘し、マインドフルネスの重視する瞑想に対する「内面に注意を払い過ぎている、それは本当の意味で世界に開かれていない」という批判について、同感であると述べている。
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