戦闘終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:49 UTC 版)
詳細は「磐城の戦い」および「二本松の戦い」を参照 16日、白河に近い平潟に新政府軍1500名が上陸。その後も続々と派兵され、7月中旬には3000の兵を擁するようになった。平潟の上陸軍に呼応して、24日に白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて南東へ出発した。棚倉城は白河と平潟の中間に位置し、平潟と白河の新政府軍が合流・提携するために確保する必要があったからである。当時、棚倉城および棚倉藩領は白河藩の事実上の預かりとなっており、藩主阿部正静の父で隠居の、幕府各奉行や老中をも勤めた阿部正外が守備していた。新政府軍の棚倉攻撃の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城し、阿部正外は逃走した。この白河・棚倉両城の陥落は、基本的に阿部家のみの兵力で両城を守らねばならなかった、すなわち兵力不足であったことも一因である。 25日、列藩同盟軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗。更に7月1日の攻撃にも失敗した。翌2日に西郷頼母が会津軍総督を罷免され、後任として内藤介右衛門が就いた。戦況は新政府へ傾いていった。8日に庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で、秋田藩および新庄藩などが列藩同盟から離反したとの報が入ったため派遣隊を戻し、同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。また13日、平潟の新政府上陸軍は平城を占領。以後、軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始、三春にて板垣の白河軍と合流した。 列藩同盟軍の白河城への攻撃は14日が最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、白河より北の中通り・浜通りが新政府軍の支配下となった。列藩同盟軍は会津藩領を経由して白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結した。
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