戦争中から戦後直後の時期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 03:54 UTC 版)
「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」の記事における「戦争中から戦後直後の時期まで」の解説
第一次世界大戦中のドイツにおける卸売物価指数は、1914年平均を100としたとき、1918年11月の大戦終了時点では223になっていた。しかしこれは通貨の増発に比べればはるかに緩い増加にとどまっており、大戦中に実施された物資の配給統制によるものであった。また米ドルとの為替レートについても、1914年には1ドル4.2マルクの公定レートであったが、戦争中を通じて次第にマルクが下落していった。1918年11月時点では1ドルに対して公定レートの1.78倍の約7.48マルクが対応するようになっていたが、これも外国為替管理とマルク相場支持工作の結果、通貨増発に比べてはるかに緩い価値下落にとどまっていた。 しかし戦時中の通貨増発と物価高騰は、参戦諸国に共通のものであり、通貨増発の程度においてはドイツは交戦主要国中1位であったが、物価騰貴率ではむしろ低位であった。第一次世界大戦の西部戦線はほぼフランスとベルギー国内で戦われたため、ドイツの工業基盤はほとんど無傷で戦争を潜り抜けており、ドイツに賠償を強制的に払わせるために連合国が経済制裁を課すと最後通告をしたにもかかわらず、ドイツはヨーロッパ大陸で支配的な経済力になりうる良い状態に付けていた。帝政崩壊から共和国建設までの政治的混乱により、ドイツ工業の生産は1919年に一時的に大きく減少したが、戦争経済に動員されていた生産力が開放されたこともあり、生産統計上は1922年には戦争開始前の1913年のドイツの生産額のうち戦争で失われた領土におけるものを除いた、新領土での比較において上回るようになった。賠償問題がなければ、ドイツの戦後のインフレーションははるかにましなものであっただろうと指摘されている。実際、1920年はじめに1米ドル59マルク前後までマルクの価値が下落してからは、いったん安定状態となり、1920年6月から7月には1米ドル39マルク前後まで価値が戻る局面も見られた。1920年には、銅貨の金属地金としての価値が額面価値を上回るようになったため、少額貨幣が不足するようになり、これを補うノートゲルトが発行されるようになった。
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