慈氏院の時代 後半 結婚そして死別
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「柴山全慶」の記事における「慈氏院の時代 後半 結婚そして死別」の解説
河野霧海が1935年(昭和10年)に遷化した時、慈氏院に来て既に十年以上の歳月が経過していた。翌々年の1937年(昭和12年)からは花園大学の前身、禅門高等学院で禅学の教鞭をとり教授となった。さらに反対を押し切って、1939年(昭和14年)には、京都の東山女学校で英語を教えていた山下よしゑと結婚。彼はこの時既に45歳であった。翌年1940年(昭和15年)には大谷大学教授に就任(禅学講座)。 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)に臨済宗南禅寺派宗務総長となる。 結婚、子供、宗務総長、大学教授。その上、河野霧海亡き後の後継者である東大出の英才華山大義の存在。どれをとってみても、慈氏院時代の全慶には僧堂師家や管長となることは、全く考えてもいなかったことの証でもある。彼は明らかに家庭人として、仏教の教えとエスペラント語を駆使して世界の平和運動をしようと考えていた。また同時に国際的な学者を目指していたともいえる。 だがその人生の設計が大戦後一気に崩れだす。1945年(昭和20年)10月14日、全慶の法兄であり、河野霧海の後継者である南禅寺僧堂師家の華山大義を乗せた船である「珠丸」が、ソウルからの帰国途中機雷に触れ沈没し、悲運にも大義は遷化した。 更に大きな不幸が、突然やってきた。戦後でモノのない時代で産後経過が思わしくなかったことで、1945年(昭和20年)の11月に妻のよしゑと、子どもの文男を同時に失うという、人生で最大の悲しみにおちたのである。 柳田聖山(1922-2006 京都大学教授 花園大学教授 国際禅学研究所所長)は次の様に述べている(p.18)。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}……大義老師の遭難死は、宗門にとって一大打撃だったが、南針軒下唯一の後継が絶えるという、もう一つの危機感が、全慶老師の後半生を、大きくかえることとなる。 —柳田聖山 慈氏院住持時代の全慶は、崩落する時代を憂え、心許す知己を会して、良心を語る集いとして、境内の語心の桜にことよせ、『語心会』をつくっていた。風雅をよそおうのが発端。本心を語るのが大切、悟るだけではいかんと語った。語心の桜は、後に全慶の名句となる、『花語らず』のモデルである。
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