慈氏院の時代 後半 結婚そして死別とは? わかりやすく解説

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慈氏院の時代 後半 結婚そして死別

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:56 UTC 版)

柴山全慶」の記事における「慈氏院の時代 後半 結婚そして死別」の解説

河野霧海1935年(昭和10年)に遷化した時、慈氏院に来て既に十年上の歳月経過していた。翌々年1937年(昭和12年)からは花園大学前身禅門高等学院禅学教鞭をとり教授となった。さらに反対押し切って1939年(昭和14年)には、京都東山女学校で英語を教えていた山下よしゑと結婚。彼はこの時既に45歳であった翌年1940年(昭和15年)には大谷大学教授就任(禅学講座)。 太平洋戦争末期1944年(昭和19年)に臨済宗南禅寺派宗務総長となる。 結婚子供宗務総長大学教授。その上河野霧海亡き後後継者である東大出の英才華山大義存在。どれをとってみても、慈氏時代の全慶には僧堂師家管長となることは、全く考えてもいなかったことの証でもある。彼は明らかに家庭人として仏教教えエスペラント語駆使して世界平和運動をしようと考えていた。また同時に国際的な学者目指していたともいえる。 だがその人生の設計大戦後一気崩れだす。1945年(昭和20年)10月14日、全慶の法兄であり、河野霧海後継者である南禅寺僧堂師家華山大義乗せた船である「珠丸」が、ソウルからの帰国途中機雷触れ沈没し悲運にも大義遷化した。 更に大きな不幸が、突然やってきた。戦後モノのない時代産後経過思わしくなかったことで、1945年(昭和20年)の11月に妻のよしゑと、子どもの文男を同時に失うという、人生最大悲しみにおちたのである柳田聖山(1922-2006 京都大学教授 花園大学教授 国際禅学研究所所長)は次の様に述べている(p.18)。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}……大義老師遭難死は、宗門にとって一大打撃だったが、南針軒下唯一の後継絶えるという、もう一つ危機感が、全慶老師後半生を、大きくかえることとなる。 —柳田聖山 慈氏住持時代の全慶は、崩落する時代憂え心許知己会して良心を語る集いとして、境内の語心のことよせ、『語心会』をつくっていた。風雅よそおうのが発端本心を語るのが大切、悟るだけではいかん語った。語心のは、後に全慶の名句となる、『花語らず』のモデルである。

※この「慈氏院の時代 後半 結婚そして死別」の解説は、「柴山全慶」の解説の一部です。
「慈氏院の時代 後半 結婚そして死別」を含む「柴山全慶」の記事については、「柴山全慶」の概要を参照ください。

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