家庭人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:37 UTC 版)
妻きみ子との間に3男2女を儲けた。大変子煩悩だったが、長男(宏)は小学校入学前の6歳の時に病死し、次男(信夫)も麻布高等学校2年(17歳)の時にクモ膜下出血により死去した。 1953年度及び1954年度には、次女(孝子)と三男(貞夫)が通学した東京都中野区立塔山小学校のPTA会長を務めた。在任中、中野区内の公立小学校ではいち早く水泳プールを開設するよう運動し、実現させた。1954年3月のプール開設式は、1,500m自由形世界記録保持者だった古橋広之進を招待して盛大に行った。 戦後友人たちに勧められて、戦時の活動を回顧し、その記録を上梓した。また、東京の自宅の仏壇に、フィリピン戦線で死去した部下たちの名簿を納め、併せて日中戦争で死去した関係者たちの慰霊のため、よく読経して過ごした。次女孝子の病死のショックもあって、1982年(昭和57年)6月12日に84歳で死去。墓は多磨霊園にある。 2009年(平成21年)9月4日に何応欽の長女麗珠と今井の三男貞夫と長女俊子が今井の生地・長野市で初めて対面した。両遺族は涙ぐんで喜び合い、平和を希求した父たちの思い出を語り合った。 2012年4月16日、長野市松代町豊栄にある明徳寺に、長野市の市民団体が中心となり、長野中学校同窓の栗林忠道と今井の顕彰碑が建立された。貞夫は、「父今井武夫は、硫黄島で戦死なされた栗林大将ほど、世に知られてはいない。然し、今回の顕彰碑建立は、父同様に日中和平に献身したが、世に知られること少なく、殉じた人たちの鎮魂にもつながるものと思う」と述べ、市民団体に感謝した。
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