惨敗続きのワシントン国際 - 凱旋門賞挑戦のはじまり
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「日本調教馬の日本国外への遠征」の記事における「惨敗続きのワシントン国際 - 凱旋門賞挑戦のはじまり」の解説
ハクリョウが招待を受けながら断念して以降、ワシントン国際へはメイヂヒカリ、クリペロと都度遠征が取り沙汰されながら出走は実現しなかった。1962年、初招待から8年を経て天皇賞優勝馬タカマガハラが初出走を果たしたが、1着から約32馬身の差をつけられての10着と敗れる。この結果を受けて、日本中央競馬会は「要するに勝利を期しての遠征計画は何もなされていなかったといってよい。まずは今後の先鞭を務めたことでその意義は十分」との見解を示したが、以後のワシントン国際において、日本からはおおむね国内第一級の馬が出走しながら、大敗を繰り返した。全出走馬と大まかな成績は次の通りである。 年度馬名着順/頭数1着との着差1962年 タカマガハラ 10着/13頭 32馬身 1964年 リュウフォーレル 8着/8頭 30馬身1/2 1967年 スピードシンボリ 5着/9頭 8馬身1/4 1968年 タケシバオー 8着/8頭 24馬身1/2 1969年 タケシバオー 7着/7頭 35馬身 1972年 メジロムサシ 7着/完走7頭 43馬身 1975年 ツキサムホマレ 9着/9頭 30馬身3/4 1976年 フジノパーシア 6着/8頭 23馬身 1980年 ハシクランツ 8着/8頭 44馬身 上記のうち、遠征史のうえで特筆される存在がスピードシンボリである。ワシントン国際において日本馬として最良の成績を挙げた同馬は、「国際性の高い競馬をしたい」という馬主・和田共弘の意向により、1969年にイギリス、フランスそれぞれの最高級競走であるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと凱旋門賞に、日本馬としてはじめて出走した。結果はそれぞれ5着(9頭立て)、11着以下(24頭立て)というものであったが、スピードシンボリは「世界の檜舞台で、日本産馬の真価を問わんとし」「国際競走に対する日本競馬社会の認識をいっそう深める役割を果たした」と評価されている。特に凱旋門賞へは時代が下るにつれて日本馬の挑戦が増えていき、いつしか強い憧れが醸成され、日本競馬が「憑かれたように」勝利を目指す競走となっていく。 なお、日本中央競馬会の広報誌『優駿』1970年1月号では、「国際レースに勝つには」という議題のもとで歴代遠征馬の馬主を中心とした座談会が行われたが、そこで議論された日本と欧米の差は、馬の血統、馬の管理、飼料、調教施設、遠征の方法論といったほぼ全方面にわたり、和田共弘は「あらゆる面で負けてる」と指摘した。
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