応援歌・賛歌
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「愛媛県立宇和島東高等学校」の記事における「応援歌・賛歌」の解説
「ああ夢多き南海に」応援部応援歌 作詞:住田多賀雄 曲:(千古の雪を戴きて) 「思えば過ぎし」漕艇部応援歌 作詞:本田正一 曲:(思へば遠し神の御代) 「佐田岬」漕艇部応援歌 作詞:徳本光信 曲:(大正四年 旧制第七高等学校寮歌北辰斜めに) 「山川影は」野球部応援歌 作詞:高木巌 「熱球血をすすりて」野球部応援歌 (大正九年 旧制第七高等学校 対第五高等学校戦 野球部応援歌 作詞:小山栄三 作曲:島田謙三) 「雄々しく進め」水泳部応援歌 作詞:河野武治吉 作曲:村田英鳳 「見よ南海の」サッカー部応援歌 作詞:山本寛己 「此処南海の」弁論部応援歌 作詞:羽賀裕昌 「登る山路は」登山部応援歌 作詞:中井鐸平 「東雲空に」剣道部応援歌 作者不明 「春秋影は」柔道部応援歌 作者不明 宇和島東高の歌集には旧制第七高等学校から影響を受けたものが少なくない。これは、宇和島中学時代に「山川影は」を作詞した高木巌を始めとする第七高等学校へ進学した卒業生の影響によるものである。「熱球血を啜りて」は大正12年頃に宇和島中学に伝わった。本来3番までの歌詞が存在するが、宇和島東高においては2番までの歌詞を使用している。また本歌とは微妙に歌詞が変わっている箇所もある。昭和63年の第60回選抜高等学校野球大会に野球部が出場した際には、当時の校長が七高同窓会事務局に使用していることへの謝罪と今後の使用についてのお願いをしたところ快諾された。後日、七高野球部OB会(鶴陵倶楽部)から「熱球血を啜りて」が作られた経緯を記した書簡が届いた。余談ではあるが、この「熱球血を啜りて」は旧制山口中学にもおいても「熱球」という名で唄われている。 「校内ボートレース大会」や体育祭の集団演舞「思えば過ぎし」は旧制宇和島中学端艇部に由来する。明治34年秋に愛媛県の勝山沖で開催された松山・宇和島・西条の三校によるボートの対抗試合で、松山中学に敗れた漕艇部の本田正一により、敗戦の悔しさを胸に雪辱を誓い、一気呵成に作られたのが「思えば過ぎし」である。その後、宇中端艇部は猛訓練に猛訓練を重ね、雪辱を果たし、大正十四年には全国大会で初優勝を飾り、また三津浜沖で開催された第1回近県中等学校端艇競漕大会でも優勝の栄冠を手にした。学制改革後の新制宇和島東高等学校においても、この雪辱を忘れまいとして体育祭で三年男子生徒により集団演舞が行われている。もう一つの漕艇部応援歌である「佐田岬」は、昭和に入り成績が低迷し始めた頃に作られた。昭和6年3月から昭和10年(1935)年8月までの4年間、3代目の配属将校として徳本光信少佐(後に大佐)が赴任した。端艇部の菊池雅恵を始めとする部員が詩人でもあった徳本少佐に作詞を依頼したところ快諾され、数日後に発表された応援歌が、この「佐田岬」であった。曲を七高寮歌「北辰斜めに」としたいと選手一同は希望し、教官の同意を得た。爾来幾星霜にもわたって、漕艇部応援歌のこの2曲が歌い継がれているのである。なお、徳本光信大佐は、昭和22年4月30日、部下の罪を一身に負い、B級戦犯として広東刑場で処刑された。宇和島東高等学校創立百周年記念の校内ボートレース大会においては徳本大佐のご遺族も招待されている。
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