応援歌・賛歌とは? わかりやすく解説

応援歌・賛歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 03:50 UTC 版)

愛媛県立宇和島東高等学校」の記事における「応援歌・賛歌」の解説

「ああ夢多き南海に」応援部応援歌 作詞住田多賀雄 曲:(千古戴きて) 「思えば過ぎし」漕艇部応援歌 作詞本田正一 曲:(思へば遠し神の御代) 「佐田岬漕艇部応援歌 作詞徳本光信 曲:(大正四年 旧制第七高等学校寮歌北辰斜めに) 「山川影は」野球部応援歌 作詞高木巌 「熱球血をすすりて」野球部応援歌大正九年 旧制第七高等学校第五高等学校戦 野球部応援歌 作詞小山栄三 作曲島田謙三) 「雄々しく進め水泳部応援歌 作詞河野武治吉 作曲:村田見よ南海の」サッカー部応援歌 作詞山本寛己 「此処南海の」弁論部応援歌 作詞羽賀裕昌 「登る山路は」登山部応援歌 作詞中井鐸平 「東雲空に」剣道部応援歌 作者不明春秋影は」柔道部応援歌 作者不明 宇和島東高歌集には旧制第七高等学校から影響を受けたもの少なくない。これは、宇和島中学時代に「山川影は」を作詞した高木巌を始めとする第七高等学校進学した卒業生影響よるものである。「熱球血を啜りて」は大正12年頃に宇和島中学伝わった。本来3番までの歌詞存在するが、宇和島東高においては2番までの歌詞使用している。また本歌とは微妙に歌詞変わっている箇所もある。昭和63年第60回選抜高等学校野球大会野球部出場した際には、当時校長七高同窓会事務局使用していることへの謝罪今後使用についてお願いをしたところ快諾された。後日七高野球部OB会倶楽部)から「熱球血を啜りて」が作られ経緯記した書簡届いた余談ではあるが、この「熱球血を啜りて」は旧制山口中学にもおいても「熱球」という名で唄われている。 「校内ボートレース大会」や体育祭集団演舞思えば過ぎし」は旧制宇和島中学端艇部由来する明治34年秋に愛媛県勝山沖で開催され松山宇和島西条三校によるボート対抗試合で、松山中学に敗れた漕艇部本田正一により、敗戦悔しさを胸に雪辱誓い一気呵成作られたのが「思えば過ぎし」である。その後、宇中端艇部は猛訓練に猛訓練重ね雪辱果たし大正十四年には全国大会初優勝飾り、また三津浜沖で開催され第1回近県中等学校端艇競漕大会で優勝栄冠を手にした。学制改革後新制宇和島東高等学校においても、この雪辱忘れまいとし体育祭三年男子生徒により集団演舞が行われている。もう一つ漕艇部応援歌である「佐田岬」は、昭和入り成績低迷し始めた頃に作られた。昭和6年3月から昭和10年(1935)年8月までの4年間、3代目配属将校として徳本光信少佐(後に大佐)が赴任した端艇部菊池雅恵を始めとする部員詩人でもあった徳本少佐作詞依頼したところ快諾され数日後発表され応援歌が、この「佐田岬であった。曲を七高寮歌北辰斜めにとしたい選手一同希望し教官同意得た爾来幾星霜にもわたって漕艇部応援歌のこの2曲が歌い継がれているのである。なお、徳本光信大佐は、昭和22年4月30日部下の罪を一身負いB級戦犯として広東刑場処刑された。宇和島東高等学校創立百周年記念校内ボートレース大会においては徳本大佐のご遺族招待されている。

※この「応援歌・賛歌」の解説は、「愛媛県立宇和島東高等学校」の解説の一部です。
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