応召から戦死とは? わかりやすく解説

応召から戦死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 08:17 UTC 版)

平松小いとゞ」の記事における「応召から戦死」の解説

1942年昭和17年1月司法官試補東京民事地方裁判所及び東京刑事地方裁判所検事局付きとなる。2月応召和歌山部隊内地勤務。小いとゞ宛虛子書簡平松の緑目出武運かな 虛子》。同「熊野4月号にて、小いとゞは《伊太祁曾わけても春の木々の神》他で「雑詠」(竈馬選)巻頭を得る。5月和歌山から列車久留米陸軍予備士官学校赴く6月伍長任官される。「熊野7月号より「筑紫便り」を3ヶ月連載竈馬宛に送られ俳句交えながら消息知らせ葉書纏めたのである久留米では激し実戦訓練日々を送るが、俳句作り続けられた。 1943年昭和18年12月少尉任官される。 1944年昭和19年正月帰省。偶会が持たれ《勝つための屠蘇ありがたしうち酔ひぬ》《動員の夜はしづかに牡丹雪》《酷寒瘴癘の地の孰れとも》《紙白く書き遺すべき手あたゝむ》などを出す。このうちの後三句「動員の」「酷寒の」「紙白く」が「ホトトギス4月号「雑詠」に載り、小いとゞにとって初巻であった翌朝には《干大根静かや家に別れんとす》などとも詠んでいる。 2月半ば門司港より船で出征冬海に泛び故国離れたり》、北支方面軍派遣釜山より汽車中国に入る《寒月下アリナレ動くとも見えず》。しかし、仮の陣地入ってもまだ余裕はあった《いくさ閑惜春なきにしもあらず》《仮陣に薔薇活けさすも我がこのみ》。戦史によると、霊宝作戦6月1日から始まっており、それに従軍したものと考えられている《尖兵長命ぜられ麦畑地図ひろげ》。初の実戦尖兵であった6月5日雨中前進する雨期豪雨の中の体温奪われ体力消耗する前進であった寒く暗く豪雨に腹も水漬き征く》。1944年の句の正確な制作日は、分かっていない。しかし、『平松小いとゞ全集』(谷口智行編、2020、邑書林)は句を「寒く暗く」の句に続く次の四句締めている。《焚火まづ豪雨にぬれし地図を干す》《将校斥候秘してぞ行くも五月闇》《五月闇に弾吐く銃丸見つけたり》《緑蔭より銃眼嚇と吾を狙ふ》。敵弾顔面命中し、小いとゞは仮陣へ運び込まれた。6月7日午後7時ホトトギス十一月号の雑詠句を初めから読んでくれと言ひ、前島(譲)君が読むのを聞きながら莞爾として大往生遂げた」。 享年二十九、満二十七歳八ヶ月の、戦争翻弄され若き俳人生涯であった戦後、「熊野在籍俳人たちは、6月7日を「白紙忌」として、小いとゞの人柄業績偲んだ

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