応召から戦死
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1942年(昭和17年)1月、司法官試補、東京民事地方裁判所及び東京刑事地方裁判所の検事局付きとなる。2月、応召、和歌山の部隊で内地勤務。小いとゞ宛虛子書簡《平松の緑目出度武運かな 虛子》。同「熊野」4月号にて、小いとゞは《伊太祁曾はわけても春の木々の神》他で「雑詠」(竈馬選)巻頭を得る。5月、和歌山から列車で久留米陸軍予備士官学校へ赴く。6月、伍長に任官される。「熊野」7月号より「筑紫便り」を3ヶ月連載。竈馬宛に送られた俳句を交えながら消息を知らせる葉書を纏めたものである。久留米では激しい実戦訓練の日々を送るが、俳句は作り続けられた。 1943年(昭和18年)12月、少尉に任官される。 1944年(昭和19年)正月、帰省。偶会が持たれ《勝つための屠蘇ありがたしうち酔ひぬ》《動員の夜はしづかに牡丹雪》《酷寒の瘴癘の地の孰れとも》《紙白く書き遺すべき手あたゝむ》などを出す。このうちの後三句「動員の」「酷寒の」「紙白く」が「ホトトギス」4月号「雑詠」に載り、小いとゞにとって初巻頭であった。翌朝には《干大根静かや家に別れんとす》などとも詠んでいる。 2月半ば、門司港より船で出征《冬海に泛び故国を離れたり》、北支方面軍派遣。釜山より汽車で中国に入る《寒月下アリナレ動くとも見えず》。しかし、仮の陣地に入ってもまだ余裕はあった《いくさ閑惜春なきにしもあらず》《仮陣に薔薇活けさすも我がこのみ》。戦史によると、霊宝作戦が6月1日から始まっており、それに従軍したものと考えられている《尖兵長命ぜられ麦畑に地図ひろげ》。初の実戦が尖兵長であった。 6月5日、雨中を前進する。雨期、豪雨の中の体温を奪われ、体力を消耗する前進であった《寒く暗く豪雨に腹も水漬き征く》。1944年の句の正確な制作日は、分かっていない。しかし、『平松小いとゞ全集』(谷口智行編、2020、邑書林)は句を「寒く暗く」の句に続く次の四句で締めている。《焚火まづ豪雨にぬれし地図を干す》《将校斥候秘してぞ行くも五月闇》《五月闇に弾吐く銃丸見つけたり》《緑蔭より銃眼嚇と吾を狙ふ》。敵弾は顔面に命中し、小いとゞは仮陣へ運び込まれた。6月7日午後7時「ホトトギス十一月号の雑詠句を初めから読んでくれと言ひ、前島(譲)君が読むのを聞きながら莞爾として大往生を遂げた」。 享年二十九、満二十七歳八ヶ月の、戦争に翻弄された若き俳人の生涯であった。 戦後、「熊野」在籍の俳人たちは、6月7日を「白紙忌」として、小いとゞの人柄と業績を偲んだ。
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