応召・戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 18:12 UTC 版)
プロ野球選手ながら兵役を免れるため、日本大学法科夜間部に在籍していたが、1944年春の学徒出陣によって召集され佐世保海兵団に入団。石丸は海軍飛行科を希望し、第14期飛行専修予備学生として筑波海軍航空隊に配属され、1945年に神風特別攻撃隊に志願して特攻隊員となる。出水での特攻訓練を受けたのち、鹿児島県の鹿屋基地に転進する。 同年5月11日の菊水六号作戦発動に伴い、石丸は神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として爆装零戦に搭乗、沖縄方面の米機動部隊を目指して出撃し、未帰還となった。石丸の従弟である牛島秀彦が著者で、出撃前に同僚の本田耕一とキャッチボールを行ったエピソードなどを書いた「消えた春」は有名である。また、当時海軍報道班員として鹿屋基地に滞在していた作家の山岡荘八がこのキャッチボールに立ち会っており、10球投げ終わったところで石丸は山岡に向かって「これで思い残すことはない。報道班員、さようなら!!」と笑顔で叫んでグラブを放り投げ、飛行場へ去って行った、とするものと、グラブは置きボールを戦闘機に持って行って鉢巻きに包み風防から投げたというものがある。 石丸の背負っていた背番号26は、チームメートだった村松幸雄(グアム島で戦死)の18とともに戦後の数年間、欠番となった。現在、中日では石森大誠投手が背番号26を使用している。
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