徳島藩の治水事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:14 UTC 版)
吉野川の河川開発が本格的に開始されたのは江戸時代に入ってからのことである。1585年(天正13年)、長宗我部元親を四国征伐で下した豊臣秀吉は、功のあった蜂須賀正勝を阿波国一国17万石に封じた。これより蜂須賀氏による阿波支配は始まる。後に蜂須賀家政・蜂須賀至鎮父子は徳川家康に与し大坂の陣の功績により淡路国も与えられ阿淡25万石の太守となった。以後徳島城を本拠として代々の藩主は領国の経営に当たるが、最大の課題は吉野川の治水・利水であった。 特に阿波は、国内での豪雨の他に上流の土佐藩領内で豪雨が降ると、阿波で雨が降らなくても水害に見舞われる状況であった。このため阿波での豪雨に伴う水害を「御国水」、土佐藩内での豪雨に伴う水害を「阿呆水(土佐水)」と呼んだ。初期の対策としては築堤の他水防竹林の植生があり、「筍奉行」を設置して竹林の整備を重点的に行った。一方、住民の水防対策としては「石囲い」や石垣による住居嵩上げで防衛策を取った。これは木曽川の水屋に似たものであるが、その石垣は均整の取れた見事なものである。徳島県名西郡石井町に現存する「田中家住宅」は石垣で囲まれた江戸時代の屋敷構えを残し、国の重要文化財に指定されている。 下る19世紀中期には貞光代官・原喜右衛門により「藤森堤」が完成している。この築堤は難工事となり工費が増大し、喜右衛門の私財も投じられたが金策に尽き、近隣8ヵ村の住民らは無償での苦役を強いられた。農民らの窮状を見かねた武田助左衛門が藩主蜂須賀光隆にご法度を破って直訴を敢行し獄死するが、喜右衛門も職を免じられ、見積もり違いと不調法のかどで切腹している。家来2人も追腹を切り、治水に殉じた3人は1893年に創設されたつるぎ町の三王神社に祀られている。このことから、藤森堤は三王堤とも呼ばれている。
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