徳島藩勤務
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藩士若山八十郎に三木流砲術を学び、嘉永6年(1853年)3月共に江戸に留学し、勝浦安右衛門、高畠五郎、下曽根氏勝等と砲台築造、大砲製造に関する蘭書を研究した。 嘉永7年(1854年)1月黒船来航に際しては大森村陣屋で大砲方を務め、3月江戸に戻り、8月帰国した。三ツ頭で大砲鋳造を行い、10月淡路島由良浦砲台が完成すると、若山八十郎と出張した。 文久2年(1862年)7月長崎に留学し、八木称平、五代友厚、赤松則良にピラール、スワルト等の測量、航海術を学んだ。当初2年間の予定だったが、情勢の変化により文久3年(1863年)3月帰国した。 文久3年(1863年)6月津田浦台場築造を命じられ、元治元年(1864年)4月大砲製造、製薬積方を兼務した。 慶応元年(1865年)8月養父小出兼政が死去し、家督を相続した。慶応2年(1866年)9月中小姓格として櫓奉行に任じられたが、養父から暦関係の事務も引き継ぎ、毎年暦推歩、略暦編纂を行った。 慶応4年(1868年)4月上京し、5月頒暦のため土御門家に差し出された。
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