御田植神事
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「おたうえしんじ」。6月14日。御田(神田)で盛大に田植えを催す神事。住吉大社鎮座時に、神功皇后が長門国から植女を召して田を作らせたのが始まりと伝える。
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御田植神事
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「御田植祭」は、毎年4月3日に五穀豊穣を願い吉野水分神社内で行われる神事である。吉野町指定無形民俗文化財に指定されている。この神事は、約700年前の室町時代より続く祭で、1年の豊作を予め(あらかじめ)祝う「予祝」神事であり、田のない吉野山で御田植神事がなわれるのは、里に水を行き渡らせる「水分」の神が祀られているからである。白衣に翁面をつけた田男と、牛面をつけた牛に扮する男が拝殿に現れ、鋤、鍬、馬鍬、柄振(えぶり)、 籠などの田仕事の農具を持ち、田を耕すところから稲の刈り入れまでの農作業の手順を、祝い詞の問答を繰り返しながら厳粛に繰り広げたあと、田男が拝殿から御供撒きを行う。翁面をつけて行われる翁舞は、翁舞の演者が神の「依代」と考えられ、神事における神の出現を演出しているとされ、翁舞を行う者は一座の最長老しか勤めることができない特別な芸能である。そのため室町時代には、吉野猿楽(桧垣本猿楽座・栃原猿楽座・巳野座・延命大夫座・宇治猿楽座)の桧垣本猿楽座が300年間務めていたが、江戸幕府による大和四座を中心とする統制政策により、桧垣本猿楽座一族は江戸に赴き縁戚関係にあった観世座の一員となった。そのため神社・禰宜が受け持つが、それも禁止されたため、「手能」と呼び素人が演じることとなり、地元の子守集落の人々によって演じ続けられてきたが、当時の翁を演じていた者が高齢を理由に継続できなくなり、1995年ごろに当時の吉野山青年団に託され、現在は吉野山の住民で組織される御田植神事保存会「御田講」が継承している。御田植神事は本来、年の初めの正月行事として、もしくは2月に行われるのが慣例だった。また大正時代には、奈良・春日大社の御田植神事の巫女神楽を伝習して成立した八乙女舞が存在していたが、様々な変遷を経て現在の4月に行われる「御田植祭」として継承されるようになった。1年の田仕事をユーモラスに演じることから、会場から笑いを誘い、吉野山では親しみを込め「オンダ(御田)」とよび、吉野山に桜が咲く少し前に行われることから、吉野山に春を告げる祭事となっている。
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