御厨子の継承について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 16:44 UTC 版)
「赤漆文欟木御厨子」の記事における「御厨子の継承について」の解説
御厨子は天武天皇から持統天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇へと継承されたとされているが、この検討については以下のような論争があった。 『国家珍宝帳』に記される由緒は以下のようになる。 右件厨子、是飛鳥浄原宮御宇天皇、伝賜藤原宮御宇太上天皇、天皇、伝賜藤原宮御宇太行天皇、天皇、伝賜平城宮御宇中太上天皇、天皇、七月七日伝賜平城宮御宇後太上天皇、天皇、伝賜今上、今上、謹献盧舎那仏 — 『国家珍宝帳』 記される6名の天皇について、飛鳥浄原宮御宇天皇=天武天皇、藤原宮御宇太上天皇=持統天皇、藤原宮御宇大行天皇=文武天皇、平城宮御宇後太上天皇=聖武天皇、今上=孝謙天皇の5名については異論はない。しかし天武から孝謙まで7代であり、残る平城宮御宇中太上天皇を元明天皇と元正天皇のどちらとするか問題となった。 黒川真頼は『東大寺献物帳考証』において『万葉集』巻20に見える先太上天皇が元明であることから、中太上天皇を元正であるとした。喜田貞吉は『中天皇考』にて元明が譲位後も御厨子を保持し続け、崩御に際して皇太子であった首皇子(聖武)に伝えたとし、中太上天皇は元明であるとした。田中卓は『中天皇をめぐる諸問題』で喜田説に反論し、『宝宇記』には先太上天皇はを元明、中太上天皇を元正としていることを指摘し、皇位継承に伴って伝授されるものではないとした。この田中説によって中太上天皇=元正とする説で決着している。 次に元明天皇に継承されなかった理由が問題となった。後藤四郎は昭和61年の正倉院展の目録で、御厨子は天武持統系に伝わるもので、元明は天智系であるため継承されなかったとした。直木孝次郎は『正倉院蔵赤漆文欟木厨子の伝来について』にて、天智の娘である持統に伝わっているので天智系である事だけで元明が排除されるのは道理に合わないと、後藤説に疑問を呈した。その上で、収納されている王羲之の書法等は青年期の教養に関わる品であることから、成長期の教養を高めるための日常的な備品であり、成人していた元明には継承されなかったとした。東野治之は『元正天皇と赤漆文欟木厨子』にて、『続日本紀』などの記述により元正が聖武の養母であったと指摘。御厨子は天武-文武-聖武という直系皇統シンボルであったとした。現在では天武系に伝わる厨子とする後藤説が基本的に容認されている。 次に元明が即位していた時期に、御厨子は何処にあったのかが問題となる。米田雄介は文武が崩御したのちは元明の宮中に留め行われ、元正の即位に伴って伝えたものの、形式上は文武から元正へ伝わった形式がとられたと推測し、元明の置かれた立場が読み取れるとしている。 また、御厨子が女帝に伝えられたことに着目し、母系制や双系制に関連する指摘もある。
※この「御厨子の継承について」の解説は、「赤漆文欟木御厨子」の解説の一部です。
「御厨子の継承について」を含む「赤漆文欟木御厨子」の記事については、「赤漆文欟木御厨子」の概要を参照ください。
- 御厨子の継承についてのページへのリンク