当日までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:44 UTC 版)
成田空港問題で反対派農民らに対して政府が機動隊投入等の強硬措置を執ったことから、三里塚芝山連合空港反対同盟(以下、反対同盟)が展開していた三里塚闘争は実力闘争と化した。新左翼と手を結んだ反対同盟は、成田市営スタジアム(現・栗山近隣公園)での「成田空港反対3・10集会」開催を1968年3月10日に予定していた。 2月26日に同じ場所で開催された反対同盟・三派全学連・砂川基地拡張反対同盟の3団体合同集会では、学生らの実力闘争で、新東京国際空港公団分室を警護していた交番勤務の警官らによる臨時編成の機動隊は716人の重軽傷者を出していた(第1次成田デモ事件)。3月10日も大規模実力闘争が予想されることから、警察は空港公団分室と隣接する市役所を有刺鉄線で要塞化し、催涙ガス対策と警備現場の環境整備のお願いを記したチラシを一般市民に配布するなど万全の体制を敷き、当日は精鋭の警視庁機動隊を含む大警備陣が動員されることとなった。なお、千葉県から応援要請を受けていた警視庁各機動隊は、事前訓練(模擬石・火炎瓶投擲防御や丸太を用いた突撃阻止等の防御・突破訓練)を行い、この日に備えていた。 マスコミ各社も成田へ集まり、TBSもラジオとテレビの両ニュース部が共同で取材するためにTBSテレビ報道部からドキュメンタリー製作取材のディレクター及びスタッフらが訪れた。 3月7日の番組会議でTBSのテレビ報道部製作のドキュメンタリー番組『カメラ・ルポルタージュ』のディレクター宝官正章は、3月12日放送分の企画として成田の農民と学生の農学共闘を取材する「成田二十四時」を提出した。本企画は予定されていた「沖縄もの」がビザ発行の遅延で製作が間に合わず代替する企画だが、時勢な題材として採用されて宝官は当日に成田へ向かった。 宝官は反対同盟の農民達に取材を依頼するが、マスコミ取材を受けない統一方針の農民たちに拒否される。3月8日に報道部副部長から「農民だけに取材せよ」と通達されるが中核派にも取材を拒否され、反対同盟石橋政次副委員長だけが取材を受け入れた。3月9日にテレビ報道部製作「ポーラ婦人ニュース」ディレクター簗瀬潮音と大原麗子が、集会翌日の11日放送分で成田闘争の農学共闘を取材に成田に着く。
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