当初の動きとは? わかりやすく解説

当初の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:44 UTC 版)

バレー方面作戦」の記事における「当初の動き」の解説

1861年11月4日ジャクソンバレー方面指揮に就きウィンチェスター司令部置いたジャクソン最近までバージニア州軍学校教授をしており、第一次ブル・ランの戦いにわかに英雄になったが、人生のほとんどの期間バレー住んでいたため、その地形にも詳しかったジャクソン配下部隊には、ストーンウォール旅団さまざまな民兵隊があった。12月、ウィリアム・ローリング准将とその6,000名の増援受けたが、それでも攻撃的な作戦を採るには不足していた。北軍バンクス部隊ポトマック川の北に留まっている間に、ジャクソン部下であるターナー・アシュビー大佐騎兵隊がチェサピーク・オハイオ運河ボルチモア・オハイオ鉄道襲撃したジャクソン部隊北軍ロムニーバス2つ小さな前哨基地攻めてみたが、決着は付かなかった。 バンクス軍は2月後半になってポトマック川渡り運河鉄道アシュビーから守るために南に移動したジャクソン部隊マナサスにあったジョセフ・ジョンストンの軍の左翼という位置付け動いてたが(ウィンチェスター南西20マイルストラスバーグからマナサスまでは、マナサスギャップ鉄道結ばれていた)、ジョンストン軍が3月カルペパー移動すると、ウィンチェスターにいたジャクソン部隊孤立した1862年3月12日バンクス南西へ(バレー遡る方向へ)の進撃続けウィンチェスター占領したジャクソンはすでにバレーパイクを通ってストラスバーグまで撤退していた。バンクス受けていた命令は、マクレラン半島方面作戦全体の戦略一環として、さらに南へ進撃しジャクソンバレーから追い出すことであった。これに成功した後は、撤退してワシントンD.C.に近い陣地戻り守備に就くことになっていた。3月17日ウィンチェスターからバンクス配下ジェイムズ・シールズ准将指揮する強力な前衛部隊(1個師団)が南下始め、ほぼ同じ時期マクレラン軍は水陸両用部隊バージニア半島への侵攻始めたジョンストンジャクソン与えた命令は、兵力がかなり劣勢なので決戦避けること、ただし同時にバンクス部隊牽制して半島を進むマクレラン軍に兵を増援させないようにすることであったシールズストラスバーグ向けて前進すると、ジャクソン騎兵偵察隊残してマウント・ジャクソンまで退いた。すると北軍騎兵隊シールズに、ジャクソンバレーから逃げだしたという誤った報告をした。バンクスは、任務第一段階、すなわちジャクソン軍をバレーから追い出すことは完了した判断し自軍の2個師団ジョン・セジウィック准将及びアルフェウス・ウィリアムズ准将師団)をワシントン近郊戻したバンクス自身3月23日にはワシントンに戻るべく準備行ったジャクソンは、妨害せよと命令されていた行動をまさにバンクス取ったことに動揺した

※この「当初の動き」の解説は、「バレー方面作戦」の解説の一部です。
「当初の動き」を含む「バレー方面作戦」の記事については、「バレー方面作戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「当初の動き」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「当初の動き」の関連用語

当初の動きのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



当初の動きのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのバレー方面作戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS