当初の動き
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1861年11月4日、ジャクソンはバレー方面の指揮に就き、ウィンチェスターに司令部を置いた。ジャクソンは最近までバージニア州立軍学校の教授をしており、第一次ブル・ランの戦いでにわかに英雄になったが、人生のほとんどの期間バレーに住んでいたため、その地形にも詳しかった。ジャクソンの配下部隊には、ストーンウォール旅団とさまざまな民兵隊があった。12月、ウィリアム・ローリング准将とその6,000名の増援を受けたが、それでも攻撃的な作戦を採るには不足していた。北軍のバンクスの部隊がポトマック川の北に留まっている間に、ジャクソンの部下であるターナー・アシュビー大佐の騎兵隊がチェサピーク・オハイオ運河やボルチモア・オハイオ鉄道を襲撃した。ジャクソンの部隊は北軍のロムニーとバスの2つの小さな前哨基地を攻めてみたが、決着は付かなかった。 バンクス軍は2月後半になってポトマック川を渡り、運河や鉄道をアシュビーから守るために南に移動した。ジャクソンの部隊はマナサスにあったジョセフ・ジョンストンの軍の左翼という位置付けで動いてたが(ウィンチェスター南西20マイルのストラスバーグからマナサスまでは、マナサスギャップ鉄道で結ばれていた)、ジョンストン軍が3月にカルペパーに移動すると、ウィンチェスターにいたジャクソンの部隊は孤立した。1862年3月12日、バンクスは南西へ(バレーを遡る方向へ)の進撃を続けウィンチェスターを占領した。ジャクソンはすでにバレーパイクを通ってストラスバーグまで撤退していた。バンクスの受けていた命令は、マクレランの半島方面作戦全体の戦略の一環として、さらに南へ進撃しジャクソンをバレーから追い出すことであった。これに成功した後は、撤退してワシントンD.C.に近い陣地に戻り、守備に就くことになっていた。3月17日にウィンチェスターからバンクス配下のジェイムズ・シールズ准将指揮する強力な前衛部隊(1個師団)が南下を始め、ほぼ同じ時期にマクレラン軍は水陸両用部隊でバージニア半島への侵攻を始めた。 ジョンストンがジャクソンに与えた命令は、兵力がかなり劣勢なので決戦を避けること、ただし同時にバンクスの部隊を牽制して、半島を進むマクレラン軍に兵を増援させないようにすることであった。シールズがストラスバーグに向けて前進すると、ジャクソンは騎兵の偵察隊を残してマウント・ジャクソンまで退いた。すると北軍の騎兵隊はシールズに、ジャクソンはバレーから逃げだしたという誤った報告をした。バンクスは、任務の第一段階、すなわちジャクソン軍をバレーから追い出すことは完了したと判断し、自軍の2個師団(ジョン・セジウィック准将及びアルフェウス・ウィリアムズ准将の師団)をワシントン近郊に戻した。バンクス自身も3月23日にはワシントンに戻るべく準備を行った。ジャクソンは、妨害せよと命令されていた行動をまさにバンクスが取ったことに動揺した。
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