建碑の流行・政治家
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江戸時代後期から大正時代にかけて建碑が流行し、東京の下町には江戸文人たちの碑がたくさん残っている。特に明治26年(1890年(明治23年))ごろから未曽有の建碑ブームとなり、日下部鳴鶴は全国を行脚して碑文を書き、その数、千数百基に及ぶといわれる。巖谷一六は鳴鶴についで多くの碑文を揮毫している。その他、西川春洞、柳田正斎、長三洲、野村素軒、金井金洞、宮島詠士など多数の書家が携わっている。また、明治天皇の勅命により神道碑が明治から大正時代にかけて8基建てられた。 明治初期の政治家の中には書に通じた人物が多く、鳥尾小弥太や山岡鉄舟らは代表的である。また、元勲の中には能書が多く、勝海舟、広沢真臣、伊藤春畝(博文)、木戸松菊(孝允)、大久保甲東(利通)、三条梨堂(実美)、西郷南洲(隆盛)などがあげられ、大正に入ってからも犬養木堂(毅)などによって書の振興が行われ、神道碑が建てられている政治家も多い。 神道碑 神道碑(しんどうひ)とは、墓所の墓道に建てる頌徳碑であり、『大久保公神道碑』などがある。 大久保公神道碑 日下部鳴鶴73歳のとき、加賀山中温泉で150日を費やして書した。1字の大きさは5センチ角で、総字数2,919字は我が国最大の楷書碑であり、鳴鶴の最高傑作といわれる。青山霊園にあるが、ここには1万5,000の墓碑が立ち、書的に貴重なものも多い。 神道碑一覧名称受者墓所筆者建碑年月毛利公神道碑 毛利敬親 上宇野令香園 野村素軒 1896年(明治29年)1月 木戸公神道碑 木戸孝允 京都霊山護国神社 野村素軒 1906年(明治39年)5月 大久保公神道碑 大久保利通 青山霊園 日下部鳴鶴 1910年(明治43年)9月 三条公神道碑 三条実美 護国寺 杉溪六橋 1925年(大正14年)4月 大原公神道碑 大原重徳 谷中霊園 北村信篤 広沢公神道碑 広沢真臣 松陰神社 杉山令吉 島津公神道碑 島津久光 福昌寺 松川敏胤 1926年(大正15年)11月 岩倉公神道碑 岩倉具視 海晏寺 杉溪六橋 1926年(大正15年)12月
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