広瀬本万葉集の発見と昌預の和歌とは? わかりやすく解説

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広瀬本万葉集の発見と昌預の和歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 08:36 UTC 版)

春日昌預」の記事における「広瀬本万葉集の発見と昌預の和歌」の解説

昌預は青年期加賀美光章私塾松亭学び、光章の死後には光章の子光起に兄師し、光章・釜川に次ぐ山本忠吉にも学ぶ。光章同門には山県大弐や後に本居宣長学んだ国学者萩原元克がいる。天明元年1781年)には萩原元克京都から持ち帰った『万葉集』書写歌学書研究を行う。 これは現在一般的である仙覚写本とは異な藤原定家校訂(「冷泉万葉集」)の写本で、1993年平成5年)には関西大学教授木下正俊・神堀忍により、元同大教授広瀬捨三所蔵『万葉集』広瀬本)が定家写本であることが判明し、この奥書には萩原元克書き入れや昌預の署名見られることからその存在注目された。広瀬万葉集発見『万葉集』解釈訓読研究進捗促したが、木下・神掘両教授研究によれば筆跡から写本作業には7人以上が携わっており、元克や昌預を中心とするグループにより行われた考えられている。 また、山梨県立図書館館長として同館所蔵漢籍国書整理行っていた吉田英也は、退任後の1991年平成3年)に同館に寄贈され甲府商家大木家所蔵文書甲州文庫、現在は山梨県立博物館寄託)の整理過程の中で、広瀬万葉集奥書記される春日昌預」と甲府町年寄山本右衛門同一人物であることを発見し飯田文彌共同発表し注目される。 昌預は町年寄時代から作歌励み晩年には年間千首上の作歌行い、現在伝わるだけで9冊の歌集5000首以上の和歌残している。昌預の和歌『万葉集』などの影響受けた花鳥風月実景題材とした自然詠中心で、町年寄役として現地視察行った荒川水害詠んだ歌もある。吉田英也は県立図書館頼生文庫大木家文書などに含まれる昌預の和歌翻刻して山梨郷土研究会誌『甲斐路』へ発表し、後に『春日昌預家集』としてまとめられている。

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