広瀬本万葉集の発見と昌預の和歌
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「春日昌預」の記事における「広瀬本万葉集の発見と昌預の和歌」の解説
昌預は青年期に加賀美光章の私塾環松亭に学び、光章の死後には光章の子光起に兄師し、光章・釜川に次ぐ山本忠吉にも学ぶ。光章同門には山県大弐や後に本居宣長に学んだ国学者の萩原元克がいる。天明元年(1781年)には萩原元克が京都から持ち帰った『万葉集』の書写や歌学書の研究を行う。 これは現在一般的である仙覚系写本とは異なる藤原定家校訂(「冷泉本万葉集」)の写本で、1993年(平成5年)には関西大学教授の木下正俊・神堀忍により、元同大学教授広瀬捨三所蔵の『万葉集』(広瀬本)が定家系写本であることが判明し、この奥書には萩原元克の書き入れや昌預の署名が見られることからその存在が注目された。広瀬本万葉集の発見や『万葉集』解釈や訓読研究の進捗を促したが、木下・神掘両教授の研究によれば筆跡から写本作業には7人以上が携わっており、元克や昌預を中心とするグループにより行われたと考えられている。 また、山梨県立図書館館長として同館所蔵の漢籍や国書の整理を行っていた吉田英也は、退任後の1991年(平成3年)に同館に寄贈された甲府商家大木家所蔵文書(甲州文庫、現在は山梨県立博物館に寄託)の整理過程の中で、広瀬本万葉集奥書に記される「春日昌預」と甲府町年寄の山本金右衛門が同一人物であることを発見し、飯田文彌と共同で発表し注目される。 昌預は町年寄時代から作歌に励み、晩年には年間千首以上の作歌を行い、現在伝わるだけで9冊の歌集、5000首以上の和歌を残している。昌預の和歌は『万葉集』などの影響を受けた花鳥風月の実景を題材とした自然詠が中心で、町年寄役として現地視察を行った荒川水害を詠んだ歌もある。吉田英也は県立図書館の頼生文庫や大木家文書などに含まれる昌預の和歌を翻刻して山梨郷土研究会誌『甲斐路』へ発表し、後に『春日昌預家集』としてまとめられている。
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