帝国軍人として
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「フランツ・フォン・パーペン」の記事における「帝国軍人として」の解説
ドイツ国領邦プロイセン王国ヴェストファーレン州(ドイツ語版)ヴェルルに、製塩業で富をなしたErbsälzer(ドイツ語版)(世襲の塩屋、程度の意味)と呼ばれる諸名家のうちのひとつに生まれる。両親の希望で陸軍幼年学校に入学し、軍人への道を進む。ドイツ皇帝の側近くに仕えたのち、第5槍騎兵連隊付きを経て参謀本部に入り、1913年に大尉に昇進。そこでクルト・フォン・シュライヒャーと知り合う。当時パーペンは巧みな馬術で名声を得ていた。1905年に製陶業で有名なビレロイ&ボッホ社の創業家の娘と結婚して工場の一つを相続し(現存)、巨大な経済力を得た。財界とも太いパイプを持つようになった。一女をもうける。 皇帝ヴィルヘルム2世の学友だった父のコネもあり、第一次世界大戦中の1915年までアメリカ大使館付き武官。フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーといった、後年のアメリカ合衆国指導者の知遇を得た。武官としてアメリカ国内でさまざまな諜報活動に従事し、また兼轄国であるメキシコをドイツ寄りにすることに努めた。結局1916年にサボタージュ活動や破壊工作活動に関与しているとされてアメリカ政府から国外追放処分を受けた。帰国の際不用意に別送した荷物がイギリス海軍の臨検を受け、パーペンがアメリカ国内に構築したドイツの諜報網が暴露された。 ドイツ帰国後に皇帝から鉄十字章を授与され、西部戦線で大隊長に転じる。その後参謀本部に戻りオスマン帝国に派遣され、オスマン帝国軍大佐となる。パレスチナ戦線のオスマン第4軍で司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの参謀長となり、そこでヨアヒム・フォン・リッベントロップと知り合う。のちに国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のアドルフ・ヒトラーが、リッベントロップの説得によってカトリック教徒や貴族層への敵愾心を抑えてパーペンと手打ちし政権を握ることを思えば、この出会いは運命的なものであった。ドイツへの帰路では、のちにドイツ大統領となるパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とも同道して知遇を得ている。
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