帝国軍人時代
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「ヴラジーミル・ピールキン」の記事における「帝国軍人時代」の解説
1906年12月6日には、海軍中佐に昇進した。1907年2月21日には、海軍中佐の娘であるマリーヤ・コンスタンチーノヴナ・レーマン(マルースャ)と結婚した。同年12月17日には、海軍総司令部に一時出向した。この年から翌1908年にかけては、艦隊水雷艇「ポスルーシュヌイ」の艦長を務めた。また、この年にはニコライ海軍アカデミー海軍学科を卒業した。同年8月28日から翌1909年10月14日のあいだは海軍総司令部に所属し、海軍総司令部水雷部の組織作りとその技術部門において指導と教示を行った。当時の参謀長官A・A・エベルガールト海軍少将は、ピールキンの1909年11月9日付けの履歴証明書で「すっかり艦隊に打ち込んでおり、海事を好み、そのため海軍総司令部での勤務に留まりたいと説明している。水雷士官は、全面的に海軍に関する全部門について教育を受けている。……その素質において、軍艦指揮や、部下をつねに自らの意思に従わせまた自らの目覚しい功績によって彼らの心を奪い、指導することについて有能な士官であると自分は推薦できる。」と記した。 1909年には、艦隊水雷艇「フサードニク」の艦長に就任した。1911年から1916年にかけては、戦列艦「ペトロパヴロフスク」の艦長を務めた。この新鋭艦が完成するまでのあいだ、1913年には戦列艦「ツェサレーヴィチ」の艦長を務めた。 第一次世界大戦では、バルト艦隊きっての新鋭主力艦を指揮して聖ヴラジーミル3等勲章を受勲した。1915年12月15日には新しい艦隊司令官にM・K・バーヒレフ海軍少将が任官したが、彼とピールキンとはポルト=アルトゥール以来の知己であった。バーヒレフ司令官は戦闘に際してはしばしば「ペトロパヴロフスク」に乗艦し、その中でピールキンとのあいだには友情が育まれた。 1916年にはバルト海第1巡洋艦戦隊長に就任し、ロシア革命後の1917年秋までその任を務めた。1916年末には、海軍少将に昇任した。1917年1月17日から1月28日にかけて、ピールキン提督の指揮の下、近代化改修工事を行う巡洋艦「リューリク」をフィンランド湾からレーヴェリへ回航させた。 第1巡洋艦戦隊所属の巡洋艦「バヤーン」には提督室が備わっていなかったが、ピールキンはS・N・チミリョーフ海軍大佐の指揮するこの艦を旗艦に選んだ。1917年には、「バヤーン」に乗ってバーヒレフ艦隊司令官が采配を振ったリガ湾防衛戦に参加した。
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