市民運動デモとしての拡大化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 08:56 UTC 版)
「月曜デモ (1989年)」の記事における「市民運動デモとしての拡大化」の解説
1989年5月に既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト・ミクローシュ政権が国境の鉄条網を撤去し、「鉄のカーテン」が綻びると東ドイツ市民はチェコスロバキア、ハンガリーを経由してオーストリア、さらに西ドイツへ出国しようと大量脱出するようになっており、8月の汎ヨーロッパ・ピクニック以降ハンガリー政府は非公式に東ドイツ市民の出国を認めるようになっていた。 最初の大規模なデモはそんな最中の1989年9月4日に西側メディアも取材している中で行われ、西側諸国にも知られることとなった。逮捕者が出る等、公安当局からの圧力がかかっていたものの毎週デモは継続された。9月11日にハンガリー政府が正式にオーストリアとの国境を開放すると、ホーネッカーはチェコスロバキアとの国境を閉鎖し、東ドイツ市民の出国をさらに制限して流出を食い止めようとしたが、これが市民のさらなる反発を招き、9月25日には8000人のデモ隊が「インターナショナル」を歌いながらライプツィヒを行進し、翌週の10月2日にはデモ参加者はさらに膨れ上がった。民衆は出国の自由を訴える方向から、国内の体制変換と民主化を強く求めるようになり「私たちはここに残る!(„Wir bleiben hier!“)」、「我々が人民だ!(ドイツ語版)(„Wir sind das Volk!“)」との訴えを前面に打ち出すようになった。 政権側がドイツ民主共和国樹立40周年を祝ったわずか2日後の1989年10月9日、デモの参加者は70,000人を超えた。ホーネッカーや国家保安相のエーリッヒ・ミールケは武力での制圧を準備していたが、既にホーネッカー失脚を画策し始めていた治安担当書記のエゴン・クレンツはこれに反対しており、駐東独ソ連大使ビャチェスラフ・コチュマソフも強く反対したために駐独ソ連軍は全く動こうとせず、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団楽長のクルト・マズアが対話を呼びかけると、地元のSED幹部もこれに賛同したため、内務省とライプツィヒの国家安全保障長官は最終的にデモ弾圧を断念し、デモの散会を求めるための弾圧ではなく、暴徒化を防ぎ安全を確保することに留める決定を下し、市民と当局との衝突は避けられた。その後、1989年10月16日にデモの参加者は100,000人を超えた。 ホーネッカーは10月16日のデモに対しても武力鎮圧を主張したが、クレンツは「デモ隊の動きに介入するな」と指示を出し、また、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した。翌日の10月17日、SEDの政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議が可決され、10月18日にホーネッカーはすべての職を辞した。
※この「市民運動デモとしての拡大化」の解説は、「月曜デモ (1989年)」の解説の一部です。
「市民運動デモとしての拡大化」を含む「月曜デモ (1989年)」の記事については、「月曜デモ (1989年)」の概要を参照ください。
- 市民運動デモとしての拡大化のページへのリンク