差別禁止法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 08:05 UTC 版)
「エリザベス・ペラトロビッチ」の記事における「差別禁止法」の解説
1941年、ジュノーに移住したペラトロビチ一家は以前よりもっとひどい人種差別を味わうことになる。借家を探すのに苦労し、公共施設で当たり前にかかった公共施設への先住民立ち入りを禁止する標識を目にする。ペラトロビチ夫妻は、ジュノーその他の「先住民立ち入り禁止」の標識について、アラスカ準州のアーネスト・グリューニング知事に掲出禁止を請願した。ところが差別禁止法案は1943年に準州議会によって否決される。夫妻はそれぞれアラスカ先住民同胞団とアラスカ先住民女性同胞団 (en) の代表者として準州議会の議員に働きかけ、所属団体を代表し議会で証言する。 エリザベス・ペラトロビチは1945年、法案が準州上院で議決にかけられる直前、最後の証人として証言し熱烈な弁舌で票の動きを決定づけたと見なされている。 有史以来5000年の文明の産物である権利章典 (Bill of Rights) について、まさか奴隷制度から解放されたばかりのようなこの私から紳士の皆さんがたにお話しする日が来るなど、夢にも思ったことはありません。 このエリザベス・ペラトロビチのコメントは、その前に同議会でアレン・シャタック上院議員 (ジュノー選出) が発言した内容を受けている。同議員は「有史以来5000年の文明を背負って立つわれら白人と肩を並べようなど、どの野蛮人どもが言うか」と尋ねていた。上院は下院通過議案14号に対して11対5で可決、「……アラスカ準州の管轄下にある公共の宿泊施設において、すべての市民に宿泊の条件と施設利用、サービス要件を十分かつ平等に提供する。違反に対し罰則規定を設ける」ものとした。この法案にグリューニング準州知事が署名し法制化するのは、アメリカ連邦議会が公民権法を可決する1964年に先んじることおよそ20年である。準州議会の法律の成立条件は連邦議会の承認であったが、これにも支持を得る。(ボブ・バートレットの働きかけが注目された。) フラン・オルマー (en) はジュノー選出のアラスカ州下院議員で (後にアラスカ州副知事に就任)、ペラトロビッチの証言について1992年に次のように述べている。 あの方はご自身とご友人、お子さんたちについて述べ、アラスカ先住民を二流の存在におとしめる残酷な扱いについて話されました。上院では居住許可がない先住民がまともな地域で家を買うことすらできないことの意味を説明されました。映画館への入場を拒まれた子どもたちの気持ち、あるいは店の窓に「犬や先住民は入店禁止」と記した標識を見つけたときにどんな気持ちになったか明かされました。
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