左翼へのシンパシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:12 UTC 版)
戦後に上の世代を否定する教育を受けた団塊の世代の人々は、 上の世代の事象を否定する傾向が高まった。そのため、1960年代後半には、政権や日米安保条約やベトナム戦争を批判する大学生による学生運動が隆盛した。 しかし前述の通り、今日のように大学進学が一般的な選択肢ではなかった当時の大学進学率は15%弱に留まっており、当時の青年の多数派は高卒・中卒として学業より労働に従事していた人々である。それに加えて、昼間は労働に従事し、夜間学部や通信教育で大学の学業を学んだという者もまだ多かった時代である。当時の大学生もノンポリとして学生運動から距離を置いていた者の方が多く、1952年10月の総選挙で議員全員落選したことで「農村から都市を包囲する」武装闘争路線を変更して、新左翼の攻撃対象となった日本共産党を支持していた者、反左翼に立った者も少なからず存在している。 したがって、「全共闘世代」という別称に代表されるイメージが適切とは言い難い。しかし、若い頃は新左翼まではいかずとも、末端の労働者の心情をくむ左翼的立場に一定の理解を示す者が他の年代よりも比較すると多く、右派の割合が比較的少ない世代でもある。大学に進学しなかった者も労働運動を通じて左派的な活動に携わった者も少なくなく、地方公務員労組や国鉄労組、専業活動家などで左派系労働組合に熱を入れている者達の中には、変化を求めて新左翼、過激派と結びついて、スト権ストや成田闘争などといった闘争に発展するケースも見られた。 だが、学生運動参加者らの多くが就職で企業戦士となり、さらには国鉄分割民営化などによる左派系労働組合の弱体化もあって、政治運動から距離を置くものが多数を占めた。連合赤軍のメンバーなど若い頃に過激な活動をしていた者さえも同様に、老後には若い頃よりも保守化する傾向がある。連合赤軍のメンバーの一人は転向して、自民党党員となっている。
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