川本三郎と菊井良治の出会い
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「朝霞自衛官殺害事件」の記事における「川本三郎と菊井良治の出会い」の解説
1971年(昭和46年)2月17日に真岡銃砲店襲撃事件があった日の翌日の2月18日(木曜日)、朝日新聞東京本社にある朝日ジャーナル編集部に電話があった。木曜日は朝日ジャーナル編集部が休みだった為、隣の週刊朝日編集部員Nが応対した。男は“梅本”と名乗り、京浜安保共闘の幹部が真岡事件について話したいので記者を寄越して欲しい、という内容だった。 Nは“梅本”に指定された場所で、京浜安保共闘幹部“大杉”と会った。実は“梅本”と“大杉”は共に菊井であり、菊井が“梅本”と名乗って電話をかけ、“大杉”と成り済ましてNに会い、菊井が一人二役を演じて朝日新聞に接触していた事が後になってわかった。 Nと“大杉”こと菊井は、朝日の出版局がよく使用する築地の旅館に移動、同僚の川本三郎記者を呼び寄せてインタビュー取材を行った。インタビューの成果は、3月5日号の『週刊朝日』で「独占インタビュー」として掲載された。 記事は次のような書き出しであった。 ナゾの過激派といわれる京浜安保共闘とは、果たして何ものなのか。本誌は、事件直後、同派の幹部と称するメンバーと連絡をとるのに成功した。そのインタビューからお伝えしよう。 黒いサングラスをかけて現れ……(中略)……背広にセーターできちんとしていた。年齢は三十歳近く、大学の少壮学者といったタイプだが『地下生活』のせいか、顔に緊張の色は隠せなかった。…… 記事は「自衛隊からカービン銃を奪って」機動隊を殲滅し、日本帝国主義を倒して革命政権をつくるというもので、次のような内容であった。 「……計画は話せないから、イメージを話そう。国会を中心にしてコンパスで円を描き、その円周上で同時的に蜂起する。三鷹で交番が爆破したかと思うと、新宿でデパートが、池袋、神田でも爆破が起こる。交通機関も破壊する。……大衆のねむりこけている意識を呼びさましつつ、他方では武装闘争の真髄をつきつけていく。大衆は必ずわかってくれると思うが、その道は長くけわしい。……略…… インタビューの最後には次のト書きで結ばれていた。 インタビューは五時間近くに及んだ。もの静かな口調は最後まで変わらなかった。アジトを転々とする潜行生活のせいだろう、『フロに入りたいですね』と、ふっともらしもした。最後に『明日は違う服装をしているから、会ってもわかりませんよ』といって笑った。 当時、京浜安保共闘はゲリラ闘争で「ナゾの過激派集団」と云われていたが、実績といえば羽田空港に海から数隻のボートで上陸したとか、真岡銃砲店襲撃事件がある程度であった。仮に記事の計画を実行に移すとしたら、最低でも1,000人から1,500人の活動家と相当数の爆弾や銃器、それらを製造するための工作機械が必要であり、男が出鱈目を言っていることは常識で判断できるものであった。まして、Nと川本は学生問題を担当していたから、他の記者より詳しい筈であった。 ところがNと川本は菊井のいう事を全面的に信じ切り、取材謝礼として当時では破格の10万円を菊井に支払ったうえ、余程菊井の事が気に入ったのか、取材後、菊井を杉並区阿佐ヶ谷所在の川本の自宅に呼び寄せた。Nが滝田修こと竹本信弘と京都大学時代からの親友であることを菊井が知ったのは、この日の夜に川本宅で三人で談笑しているときであった。
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