岩倉蔓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:24 UTC 版)
全国和牛登録協会が認定している最古の4大蔓牛は以下の通り。 竹の谷蔓 岩倉蔓 : 1843年備後比婆郡で誕生、後の比婆牛 周助蔓 : 1845年但馬美方郡で誕生、後の但馬牛 ト蔵蔓 : 1855年出雲仁多郡で誕生、後の奥出雲和牛 資料によっては竹の谷・岩倉・周助で3名蔓と呼ばれている。この「岩倉蔓」が現代和牛としての比婆牛のルーツで、1843年(天保14年) 比和村布見(現比和町布見)の岩倉六右衛門が近親交配を重ねて育種したものである。なお古い資料では布見牛とも呼ばれている。 明治時代初期、岩倉蔓に加えて帝釈村(現東城町帝釈)岸万四郎が生み出した「有実蔓」も知られるようになる。また明治時代には八幡や美古登・口北や小奴可と各村に蔓牛が誕生している。近代に入り役牛に加えて肉食として用いる「役肉用牛」へと役割が移っていく。また近代化によってたたら製鉄が斜陽化すると、その失業者の受け皿の一つとなったことでこの地の牧畜が活発化したと見られている。 1900年(明治33年)農商務省によって近代的品種改良の拠点となる種畜牧場が山内東村七塚原(現山内町)に整備される。同年開催された第1回中国5県総合共進会において布見牛(岩倉蔓)が農商務大臣賞を受賞している。 比婆牛は役肉用牛としてだんだん全国に知られるようになる。ただし近代の広島和牛の代名詞的な存在は神石牛の方であった。1927年(昭和2年)2月7日大正天皇大喪の礼の際、神石牛「豊萬」号と共に八幡村(現東城町八幡地区)の「八幡」号が御轜車奉引牛に選ばれている。従来は京都丹波牛から選ばれており、それ以外では初めてのことだった。 八幡号 大正天皇大喪の礼での御轜車。どちらの牛か不明。
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