山下栄二
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/15 02:59 UTC 版)
|
山下栄二
やました えいじ
|
|
|---|---|
| |
|
| 生年月日 | 1901年10月14日 |
| 出生地 | (現・鹿児島県霧島市) |
| 没年月日 | 1990年1月9日(88歳没) |
| 出身校 | 関西商工学校卒業 (現・関西大倉高等学校) |
| 前職 | 久保田鉄工所社員 |
| 所属政党 | (社会民衆党→) (日本社会党→) (右派社会党→) (日本社会党→) 民主社会党/民社党 |
| 称号 | 正四位 勲二等旭日重光章 |
| 選挙区 | (兵庫県第1区→) 旧兵庫2区 |
| 当選回数 | 8回 |
| 在任期間 | 1946年 - 1948年12月23日 1952年10月1日 - 1960年10月24日 1963年11月21日 - 1969年12月2日 |
|
|
|
| 当選回数 | 2回 |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1928年 - ? |
山下 栄二(山下 榮二[1]やました えいじ、1901年(明治34年)10月14日[2] - 1990年(平成2年)1月9日[3])は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。
経歴
鹿児島県姶良郡西襲山村(現・霧島市)で生まれる[2][4]。肥料問屋に奉公後、1920年(大正9年)、久保田鉄工所の尼崎工場に鋳物臨時工として入り、同鉄工所に1956年(昭和31年)の定年まで務め、その後、同顧問[3]、同社友となる[2][4]。
1921年(大正10年)の争議を機に労働運動に加わる[2][4]。1923年(大正12年)に関西商工学校(現・関西大倉高等学校)を卒業した[5]。1928年(昭和3年)、三・一五事件で検挙されたが不起訴となる[2][4]。同年、社会民衆党所属で尼崎市会議員に当選し、その後、兵庫県会議員を務めた[2][4][注釈 1]。また、日本労働総同盟尼崎連合会長として労働運動を行う[2][3][4]。
戦後、日本社会党に入党[2][4]。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から立候補し当選[3]。その後、兵庫県第2区より第23回、第25回から第28回まで、第30回、第31回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算8期務めた[3]。1960年(昭和35年)、民主社会党に加わった[2][4]。この間、衆議院文教委員長、同初代交通安全対策特別委員長、日本社会党兵庫県支部連合会長、同労働政策委員長、同国会対策副委員長、同中央執行委員、同選挙対策副委員長、民主社会党選挙制度対策委員長、同代議士会会長、同兵庫県連顧問などを歴任した[3]。
1971年11月の秋の叙勲で勲二等に叙され、旭日重光章を受章する[7]。
1990年1月9日、死去。88歳没。同月12日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正四位に叙された[1]。
出典
注釈
脚注
参考文献
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『市民・社会運動人名事典』日外アソシエーツ、1990年。
- 『20世紀日本人名事典 そ-わ』日外アソシエーツ、2004年。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 長谷川保 |
1957年 - 1958年 |
次代 坂田道太 |
| 先代 1948年 |
新設 |
次代 山下栄二(代理) |
- 山下榮二のページへのリンク