就任時の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:29 UTC 版)
1989年10月、野村はヤクルト本社社長の桑原潤の熱烈な要請を受けて、セ・リーグのヤクルトスワローズの監督に就任し、12年ぶりに現場に復帰した。 沙知代の長男であるダンは、1978年から1981年までヤクルトに選手として在籍し、引退後にはマイナーリーグ1Aのサリナス・スパーズのオーナーを務めていて、1989年シーズンには3人の選手(忰田幸也、鈴木康博、幸田正広)がヤクルトからサリナスへ野球留学で派遣されており、ヤクルト球団と野村家の間には以前から太いパイプがあった。7月に財界筋から桑原へ「野村氏がヤクルトなら、監督を引き受けるかもしれない」との情報がもたらされると、桑原は直ちに球団社長兼オーナー代行の相馬和夫に野村との接触を命じた。同年には他にダイエー、ロッテ、大洋の3球団からも野村へ監督就任の要請があったが、ダイエー、ロッテはセ・リーグの監督を希望する野村の意に合わず、大洋は戦力再建に時間がかかる状態であったために拒否した。これに対して、若く素質のある選手が揃っており資金力も豊富で、講演・評論で2億5千万円ほどの年収があるといわれる野村に相応の年俸を用意できるヤクルトへは、ダンを通じて就任に前向きな態度を示した。 本社社長の桑原が野村の招聘活動を進める一方で、球団社長の相馬は8月からこの年限りでの現役引退を表明していた若松勉を監督に就任させる準備を始めており、9月の時点では若松が次期監督就任濃厚と目されていたが、桑原は相馬の動きを押し止めるため球団経営への直接参加に乗り出し、相馬のオーナー代行職を解いて自らがオーナー代行に就任し、10月初旬には野村と会食して、契約金7千万円、年俸8千万円(いずれも推定)という条件を提示し、全面支援を約束して監督就任を正式に要請し、野村もこの要請を受諾した。 就任会見で桑原は「野村監督は、私が中心となって決めました。私がオーナー代行も兼ね、全社をあげてバックアップします」と宣言し、野村も「桑原社長には高く評価してもらったのだと思う」と語った。しかしヤクルト退団後には、桑原との関係が悪化していたこともあり(1995年の開幕直前に、桑原が「おそらく野村監督も今季が最後だろうと思いますので」と発言)、野村は一転して、桑原ではなく相馬に自分の野球理論を高く評価されたと主張するようになり、さらに桑原と相馬が死去した後には、全く縁もゆかりも無いヤクルトの監督をやるつもりはなく、当初は断ったが「あなたに受けてもらわない困る」と桑原ではなく相馬から頼み込まれたので渋々同意した。と主張するようになった。 コーチ陣は、ヘッド兼打撃コーチに南海時代からの参謀である高畠康真が就任した以外は、球団側の用意したヤクルトOBで固められた。また就任直後に、高血圧性心疾患の疑いで慶應病院に入院したために、西都での秋季キャンプに参加することができず、こうした健康面での不安から、一部では早くも「野村の次の監督」を推測する報道がなされた。
※この「就任時の状況」の解説は、「野村克也」の解説の一部です。
「就任時の状況」を含む「野村克也」の記事については、「野村克也」の概要を参照ください。
- 就任時の状況のページへのリンク