小林千弘の社長就任
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1984年には生え抜きの小林千弘が社長に就任。大蔵省印刷局長を経て社長に就いていた青山保光は相談役に追放された。小林のもとでバブル経済期には、1987年3月末の総資金量は6,000億円となり、当時の相銀界69行中24位につけた。また不動産業やいわゆる地上げ業者へ積極的な融資拡大策を執り、暴力団が手がけ同和団体の大物であった尾崎清光も関わった東京都八王子市内のによる霊園開発や、当時“地上げの帝王”と言われた最上恒産の早坂太吉が1987年12月から始めた新宿区西新宿界隈の地上げ、などに対する2,000億円にのぼる融資を実行した。これら融資が問題となり、1987年12月の衆議院土地問題特別委員会で最上恒産グループに対する融資が大口融資規制違反として取り上げられ、大蔵省は第一相互銀の融資姿勢を指導していくと確約した。 これによって大蔵省は小林に退陣を要求するが、一向に辞めなかったため第一相互銀を決算承認銀行に指定したほか、長期間に及ぶ銀行検査を実施するなどして、1989年1月、小林はようやく辞任するも、同年2月の普通銀行一斉転換には加われなかった。同年6月の株主総会で太陽神戸銀行常務が社長に、元大蔵官僚が会長にそれぞれ就任。さらに大蔵省が太陽神戸、富士、東海、三和の各行に奉加帳を回し第一相互銀に融資した上で人も出し支援する体制を作った。同年10月に遅れて第二地銀に転換し、「太平洋銀行」として発足した。しかし、バブル崩壊によって経営が悪化。1992年には第2次支援を実施。太陽神戸の後身であるさくら銀行が頭取や多くの役員を派遣したほか、大蔵省、日銀、都銀も役員を派遣、さらに都銀4行と日銀が2200億円を融資する体制を敷いた。だが、1995年8月に兵庫銀行が経営破綻すると、次は太平洋かと風評が立ち預金の流出が始まり、また地価の下落に伴う担保割れも続出した。この最中、1996年3月には大蔵省と日銀が、さくら銀に処理の決断を促していた所、同年3月29日の東証後場取引終了直後、4都銀によるブリッジバンクの設立構想がマスコミによってすっぱ抜かれた。これが直接の破綻の引き金となった。
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