小林千弘の社長就任とは? わかりやすく解説

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小林千弘の社長就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 21:01 UTC 版)

太平洋銀行」の記事における「小林千弘の社長就任」の解説

1984年には生え抜き小林千弘が社長に就任大蔵省印刷局長経て社長に就いていた青山保光相談役追放された。小林のもとでバブル経済期には、1987年3月末の総資金量は6,000億円となり、当時相銀69行中24につけた。また不動産業いわゆる地上げ業者積極的な融資拡大策を執り暴力団が手がけ同和団体大物であった尾崎清光も関わった東京都八王子市内のによる霊園開発や、当時地上げ帝王と言われ最上恒産早坂太吉1987年12月から始めた新宿区西新宿界隈地上げ、などに対する2,000億円にのぼる融資実行した。これら融資問題となり、1987年12月衆議院土地問題特別委員会最上恒産グループ対す融資大口融資規制違反として取り上げられ大蔵省第一相互銀の融資姿勢指導していくと確約した。 これによって大蔵省小林退陣要求するが、一向に辞めなかったため第一相互銀を決算承認銀行指定したほか、長期間に及ぶ銀行検査実施するなどして、1989年1月小林はようやく辞任するも、同年2月普通銀行一斉転換には加われなかった。同年6月株主総会太陽神戸銀行常務社長に、元大蔵官僚会長それぞれ就任。さらに大蔵省太陽神戸富士東海三和各行奉加帳回し第一相互銀に融資した上で人も出し支援する体制作った同年10月遅れて第二地銀転換し、「太平洋銀行」として発足した。しかし、バブル崩壊によって経営悪化1992年には第2次支援実施太陽神戸後身であるさくら銀行頭取多く役員派遣したほか、大蔵省日銀都銀役員派遣、さらに都銀4行と日銀2200億円を融資する体制敷いた。だが、1995年8月兵庫銀行経営破綻すると、次は太平洋かと風評が立ち預金流出始まり、また地価下落に伴う担保割れ続出した。この最中1996年3月には大蔵省日銀が、さくら銀に処理の決断促していた所、同年3月29日東証後場取引終了直後、4都銀によるブリッジバンク設立構想マスコミによってすっぱ抜かれた。これが直接破綻引き金となった

※この「小林千弘の社長就任」の解説は、「太平洋銀行」の解説の一部です。
「小林千弘の社長就任」を含む「太平洋銀行」の記事については、「太平洋銀行」の概要を参照ください。

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