小松の開業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:46 UTC 版)
小松の創始者である山本コマツは幼名を山本悦といい、1849年(嘉永2年)、江戸で乾物商を営んでいた山本新蔵の四女として小石川関口水道町に生まれた。1866年(慶応2年)、山本悦は近所に住む友人に誘われ、浦賀へ向かい、そこで吉川屋という旅籠料理店に住み込みで働くようになった。天然の良港である浦賀は江戸時代から港町として栄えてきたが、明治初年には創建間もない日本海軍の根拠地の一つとなり、海軍関係の宴席の多くは吉川屋で行なわれるようになった。そのような中、山本悦は海軍関係者との人脈を築いていくことになる。 1875年(明治8年)、山田顕義、山縣有朋、西郷従道らとともに、小松宮、北白川宮、伏見宮、山階宮の4名の皇族が、浦賀沖で行なわれた水雷発射試験の視察のために浦賀にやってきた。浦賀での一行の宿は当初別の場所とされていたが、見晴らしが良い一等地に建っていた吉川屋を見た皇族らが吉川屋での宿泊を希望したため、急遽吉川屋が一行の宿所に充てられることとなった。 その晩の宴席での余興で、山本悦は4名の皇族らと指相撲を行なったが、当時としては大柄の女性であった山本悦に4名の皇族たちは歯が立たなかった。感心した小松宮が、「お前の立派な体にあやかりたい、そのかわりにわしがお前に名前を付けてあげよう」と言い出した。これは宴席での小松宮の戯言であると思っていたが、翌朝一行への挨拶にやってきた浦賀の郡長に小松宮が、「昨晩名をつけてやったから、改名の手続きをしてやってくれ」と依頼をした。山本悦は山本小松では畏れ多いと、片仮名の山本コマツと改名の手続きを行なった。これが後に料亭小松の名の由来となった。 山本コマツは改名後も浦賀の吉川屋で働き続けていたが、いつしか独立を考えるようになっていった。長年吉川屋で働く中で貯蓄も出来て、仕事にも慣れ、更には仕事をする中で繋がりが出来た海軍関係者から、「これから横須賀は日本一の軍港になる、ぜひ横須賀で開業しろ」と勧められたため、独立を決意した。折りしも、1884年(明治17年)12月には横須賀鎮守府が成立しており、横須賀は海軍の軍港として発展を見せていた。山本コマツは1885年(明治18年)8月8日、20年近く働いてきた吉川屋から独立し、横須賀の田戸海岸に割烹旅館の小松を開業した。なお開業日は八の字が重なる日は縁起が良いとのことで、特に選ばれた日であった。
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