宝塚歌劇団の復活と影
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1972年(昭和47年)、男装の麗人が活躍する少女漫画「ベルサイユのばら」が社会現象となるほど大ヒットしており、1974年(昭和49年)宝塚歌劇団がこれを舞台化するとたちまち宝塚歌劇ブームを巻き起こした。宝塚歌劇団は全国な知名度を高め、また少女のファンが急増したりと窮地から脱した。付属の宝塚音楽学校の志願倍率も跳ね上がり、多くの人材が集まったため、その後の宝塚歌劇団を支える地盤となった。また1970年代後半より宝塚歌劇団では円形の羽を背負うのが定番となるが、後にOSKも模倣した。 1970年代、遊園地:那須ロイヤルセンターの専属劇団である那須ロイヤルダンシングチームが、宝塚歌劇団やOSKのスタッフを招聘してレビュー上演を新たにはじめた。公演内容はOSKから強い影響を受けていた。 宝塚歌劇団が繁栄する一方、ミュージカルを得意としないOSK・SKDは苦戦が続いた。宝塚歌劇団では人気と人材の豊富さから、トップスターでも入団後15年程度で退団し次のスターへ交代するスターシステムが上手く機能するようになった。トップ就任→退団の時期は、OSKは宝塚歌劇団より数年長く、SKDに至っては入団後20年以上かかっていた。宝塚歌劇団出身者が退団後、系列の東宝ミュージカル等へも出演し、芸能界でも活躍したのに対し、OSK・SKDは著名な出身者が少なくなり、知名度は低下する一方だった。 セクシー路線を打ち出していたSKDには女性の固定ファンが定着せず衰退。1981年(昭和56年)に本拠地国際劇場から撤退し、歌舞伎座や地方公演でレビュー上演を続けたが、1990年(平成2年)をもってレビューを中止しミュージカル劇団への再編を試みた。しかしこのことでレビューファンが離れ、劇団員も半減した。制作方針も定まらないまま迷走を続け1996年(平成8年)6月30日付で解散した。また、那須ロイヤルダンシングチームも同時期1997年(平成9年)に解散した。 SKD解散に前後し、元スターによるSTASが1992年(平成4年)に、解散時メンバーによる薔薇笑亭SKDが1997年(平成9年)に誕生し、それぞれ浅草近郊でレビューを上演していた。その後、2013年(平成25年)を最後に、薔薇笑亭SKDはレビュー公演を実施していない。
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