官設無線への準用まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 06:51 UTC 版)
帝国議会で電信法が審議中だった1900年(明治33年)2月9日、海軍大学校構内に無線電信調査委員会が発足した。逓信省の電気試験所より松代松之助技師らの技術者と、第二高等学校(仙台)の木村駿吉教授が迎えられ、海軍無線電信機の開発に着手した。そして同年4月より築地の海軍大学校と羽田穴守に建設した無線実験局の間で通信試験がはじまった。 一方、松代技師が抜けた逓信省では佐伯美津留技師が無線研究を引き継ぎ、同年4月より千葉の津田沼(谷津塩田)-八幡海岸間で通信試験を繰り返した。ちょうど海軍省と逓信省のフィールドテストの時期が重なったが、まだ原始的な非同調式無線機の時代だったため、お互いの混信は避けられなかった。この混信妨害を教訓とし、逓信省は民間による電波利用を禁止する必要性を認め、まもなく施行される予定にあった電信法の適用範囲を拡大し、電波を官設無線に限定する方針を固めた。 1900年(明治33年)10月1日、まず有線通信を対象とする電信法が施行された。続けて10月10日の逓信省令にて官設無線電信への準用がはじまった。電信法が日本で最初の電波に関する法律である。 電信法は第一条で「電信と電話は政府が管掌する」と宣言する一方で、第二条では例外として個人や法人による私設を認めていた。しかし無線電信への準用では「第二条を除く」とし、企業や個人による私設無線を一切禁じた。すなわち政府以外には無線電信を許可しないことを決めたのである。 1912年(明治45年)2月、逓信省の電気試験所においてTYK式無線電話が発明された。2年間の改良を経て、1914年(大正3年)12月より三重県鳥羽・答志島・神島で実用化試験が計画され、これを機会に私設(個人や法人)の無線電話を認めないことを明文化しておくことになった。 1914年5月12日、逓信省令により無線電話にも電信法が(第二条を除き)準用され、ここに一切の私設を認めない「無線電信および無線電話の政府管掌」が完成した。1915年(大正4年)6月15日には、落石無線電信所JOCとロシアのペトロパブロフスク間において日本初となる外国電報の取扱いも始まり、無線通信が電信法のもとで順調に発展を遂げてきたといえよう。 < 電信法 >有線(電信・電話)無線(電信・電話)官設施設○ ○ 私設施設(企業や私学校、個人)○ ×(禁止)
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