宗教界への復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 01:41 UTC 版)
『第三帝国』は大正デモクラシーの灯火を掲げ、社会的運動ばかりではなく、新鋭文芸家の活躍の場となった。1917年(大正6年)10月10日、石田が入監したのに伴い小山東助が主幹を代行、無署名で巻頭論文を執筆した( - 11月10日)。1918年(大正7年)10月9日には石田は老壮会 の創立会に参加している。こののち『第三帝国』は『文化運動』と改題し、下中弥三郎 の手に経営が移ってからは、石田は再び宗教界に復帰し、賀川豊彦らとともに活動した。神田の青年会館(東京YMCA会館)が1923年(大正12年)の関東大震災で被災したのちの仮会館での復興途上の諸活動は1927年(昭和2年)に石田が編纂した『人格建造・奉仕道場としての東京基督教青年会』に詳しい。1928年(昭和3年)にはジュネーヴで開かれた世界宗教平和大会協議会に日本代表として出席しており、1929年(昭和4年)には東京基督教青年会宗教部より刊行の『基督教講座』第3期第2巻および第3巻の編集兼発行者となっている。 賀川豊彦と石田友治は昭和初年より東京で医療組合活動を推進していたが、石田の故郷秋田では鈴木真洲雄が中心となって農民のための医療組合設立運動を展開していた。鈴木をとりまく人道主義者・協同組合主義者・社会主義者らはこの状況を改革しようと志し、石田友治の援助をうけ、県庁内の革新官僚と手をむすんで運動を展開した。1932年(昭和7年)秋田医療利用組合の設立が県知事名で認可された。これは賀川・石田らの東京での医療組合運動とならんで、全国にさきがけた快挙となった。鈴木は石田の兄が経営する病院で診察を開始、やがて新病院を建設、さらに県内各地にこの運動が広がった。
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