宗教界は当初、あまり問題視しなかった
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:19 UTC 版)
「95か条の論題」の記事における「宗教界は当初、あまり問題視しなかった」の解説
マインツ大司教アルブレヒト(1519年) 教皇レオ10世(1518年頃) シュタウピッツ ルターが95か条の論題を貼りだしたのは、多くの一般市民に教会の不正を周知する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかった。ルターはアウグスティヌス修道会に属しており、ルターが討論を呼びかけた相手方はドミニコ修道会だった。ドミニコ修道会こそ、贖宥状の販売を請け負ってドイツ中で売りさばいていた張本人だったからである。 しかしルターによる呼びかけにも関わらず、ドミニコ修道会との討論会は実現しなかった。当時のヴィッテンベルクの支配者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒは、領内での贖宥状を禁じる目的でドミニコ会修道士を領地から全員追放していた。ドミニコ会修道士はそもそもヴィッテンベルクに立ち入ることができなかったのである。 ルターから「論題」の写しを受け取ったマインツ大司教アルブレヒトは、これをマインツ大学に委ね、周囲にはこの件について一切の言及を禁じた。そのうえで自分の上席にあたる人物、すなわちローマ教皇レオ10世へ文書を回送した。アルブレヒトはこれによって、この件についての自己の責任を免れると考えた。そしてレオ10世こそ問題の贖宥状の販売の総元締めである。 そのレオ10世は、当時の大多数の人々と同じように、これをアウグスティヌス修道会とドミニコ修道会の小競り合いに過ぎず、「修道士どもの口喧嘩」程度のことと考えていた。ルターは「酔っぱらいのドイツ人」であり、しらふに戻れば違うことを言うだろうと評したとも伝えられている。この時点でのルターの主張は要するに、誤りを犯しているドミニコ修道会に対し、正しいカトリックの教義を説こうとしているものだった。レオ10世はアウグスティヌス修道会のドイツの長ヨハン・フォン・シュタウピッツ(ドイツ語版)にこの件を委ねることにした。シュタウピッツはルターの主張に理解を示し、1518年4月25日に開かれる修道会の総会で議題にするように提案した。 そのほかの聖職者たちも、表立った反応はさし控えた。ブランデンブルク司教のシュルツ(Hieronymus Schulz)のところにもルターから文書が届いたが、シュルツは読みさえしなかった。それでいてルターに自筆で親切な返事を書き、ルターの主張にはカトリックの教義に反するものは見受けられないし、贖宥状の販売は自分も嘆かわしいと感じるが、今は口を噤んでおいたほうがいいだろう、と伝えている。シュルツには、とにかくルターのいるザクセンとマインツ大司教の本拠であるブランデンブルクの対立に発展するのを避けたいという思いしか無かったと考えられている。
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