安東金氏の勢道政治から大院君へとは? わかりやすく解説

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安東金氏の勢道政治から大院君へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)

李氏朝鮮」の記事における「安東金氏の勢道政治から大院君へ」の解説

1802年、金祖淳(朝鮮語版)の娘が王妃純元王后になる。1804年14歳になった純祖による親政始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后士禍から逃れることが出来た1805年貞純王后亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治補佐を行うようになり、貞純王后によって登用され僻派要人大量追放する。その一方で、王の政治補佐するとの名目で、自分本貫である安東金氏一族から大量に人材登用する。このことで士林派による政治終焉迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏政治壟断する勢道政治時代が始まる。安東金氏による政治専横が始まると、官職から追放され両班があぶれ、また政治綱紀乱れ汚職収奪などの横行頻繁に起こるようになり(三政の紊乱)、農民反乱頻発した朝鮮後期農民反乱)。1811年起きた洪景来の乱農民だけでなく、西北地方への地域差別対す反発没落両班新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、1812年鎮圧された。安東金氏次代、わずか7歳即位して22歳崩御し憲宗次々代王哲宗にも王后送り込み外戚として権勢振るった勢道政治は、哲宗時代絶頂迎え59年わたって朝鮮政治牛耳っていた。 1845年にはイギリスの軍艦済州島付近海域侵入1846年には、フランス海軍によるカトリック弾圧対す抗議など、西洋列強干渉が始まる。 安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化王朝混乱生じさせた。王族直接政治関与できなかったために手をこまねいているしかなかったが権力奪取動き出てくる。1863年に第26代王高宗即位するまで依然朝廷権力安東金氏掌握していた。憲宗の母である神貞王后趙氏)と李昰応(昰は日の下に正。興宣君)は、この権力構造打ち破り王権取り戻そうと策を巡らせていた。李昰応は、安東金氏の目をそらすため安東金氏一門渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏油断させる事で護身図った。やがて哲宗重病陥ると、自らの次男聡明さ喧伝し、哲宗亡くなると神貞王后謀り自分次男孝明世子翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后高宗後見人となり、李昰応大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政地位就いた。このとき高宗11歳であった興宣大院君摂政になるとまず行ったのは、安東金氏勢道政治打破であった安東金氏要人追放し党派門閥問わず人材登用し汚職官僚厳しく処罰するなどして、朝廷風紀乱れをただす事に力を入れた。また税制改革し両班にも税を課す事とし、平民の税負担軽くした。

※この「安東金氏の勢道政治から大院君へ」の解説は、「李氏朝鮮」の解説の一部です。
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